議論の破綻
生活指導部長は手元の資料を握りしめ、紙が皺を食む音を響かせた。
その声は、怒りでも威厳でもなく、氷の上を歩く獣のような不安に満ちていた。
「……校則違反の可能性は?」
喉奥から搾り出すように続ける。
「単独行動、監護者なしの外出、門限遵守の履歴チェック……抜け道を探せば——」
だがその言葉は、終わりを迎える前に切断された。
「しかし、罰せられる意図がありません。」
心理相談室長が速射砲のように言い放つ。
眼鏡の奥、瞳は焦点を失いかけ、ただ理屈にすがりつく。
「彼女は、動機を提示していません。抵抗の意思も、破壊の意思も。
罰は、意図に寄り添うための装置なのです。空白には適用できない。」
彼の声は静謐だった。静かすぎて、誰も呼吸を忘れる。
生活指導部長の肩が沈む。彼の武器は没収された。
ルールの網は、動く者を捕らえるために編まれている。
止まっている者を絡め取る術はない。
それを見計らったかのように、牧師が胸の前で指を組んだ。
天へ祈る姿勢のまま、まるで告解でも始めるように言う。
「彼女は“救いを求めていない”。」
一言ごとに視線が揺れた。
「ならば我々は……何を与えるのか?罰でも導きでも、介入でもなく、ただ空気のように見守るのか?」
会議卓の周囲に、不可視の裂け目が走った。
それは議論の流れではなく、構造そのものの崩落だった。
生活指導部長は言葉を探す。
心理相談室長は定義を探す。
牧師は意味を探す。
——しかし、彼らは気づいてしまった。
ユーフェミアは、物語のどの役割にも当てはまらない。
反逆者ではない。
被害者でもない。
加害者でもない。
救済を待つ迷える子羊でもない。
役割がなければ、彼らの物語は成立しない。
NPCの存在理由は、役割を与えられた者に反応することにあるからだ。
学院長は椅子の背に深く沈み込んだ。
誰も声を発しない。
沈黙はもはや議論の間ではなく、敗北の証明となっていく。
椅子の脚が床を擦る微かな音だけが響く。
それはまるで、回転を止め損ねた舞台装置が、惰性で回り続ける音のようだった。
NPCたちは悟った——
彼らはユーフェミアを排除できない。
導けない。
罰せない。
そして最も恐ろしいことに——
物語の中に“配置”できない。
会議室全体が、ガラスのような静寂に沈んだ。
そこには一つの確信だけがあった。
崩壊は、叫びによってではなく、空白によって訪れるのだ。




