恐怖の本質:反乱ではない、不作為
会議室の壁を叩くのは、時計の針の律動だけだった。
誰も視線を合わせない。光沢のある楕円卓に、沈黙が幾重にも反射していく。
学院長は、その沈黙を切り裂くように言った。
「……まだ彼女は立たないのか。」
言葉はあまりに軽く吐き出された。だが意味は重い。
反抗の狼煙でも、暴力の芽でもない。
それは――“ゼロ”の報告であった。
副学院長が眉を寄せる。
「彼女は授業に出席し、提出物も期限通り。遅刻も欠席も……ございません。生徒間の摩擦も、教師への抗議も、一切」
報告は淡々と、まるで気温や湿度の情報のように読み上げられる。
しかし読み上げるほどに、会議室の空気は薄くなっていく。
生活指導部長が堪えきれず吐き捨てる。
「問題行動が起きるなら、対処の枠組みがある。指導も罰則も準備できる……だが、何もしないとなると……」
言葉が宙に溶ける。
代わりに牧師が静かに続ける。
「罪とは行為により定義される。無為は……定義を拒む。」
その言葉に誰も反論しない。
この部屋に集う者は、制度という舞台の裏方だ。
生徒という役者が台詞を読み間違えれば、彼らは訂正を与え、罰を与え、舞台を整える。
だが――ユーフェミアは舞台の上で立ち尽くす。
照明を浴びながら、脚本を読まず、アドリブもせず、ただ存在している。
学院長が椅子の肘を指で軽く叩いた。
乾いた音が、会議の核心を指し示す。
「事件が起これば――われわれの筋書きが成立する。犯した罪に応じ、処罰という舞台が整う。」
彼はそこで言葉を切り、全員の視線を一身に集めた。
「だが事件が起きなければ、演者不在の舞台だけが残る。台本は使われず、我らは観客席にすら立てない。」
心理相談室長が震える声で呟く。
「……こちらから接触するという案も、先週否決しました。理由は『必要性がない』」
「そうだ。」生活指導部長が唸るように言った。
「必要性がない。彼女は規範を破っていない。だから我々は動けない。彼女はただそこにいるだけだというのに。」
会議室には、焦げ付いた鉄板のような沈黙が広がった。
誰かが何かを言い出す前に、学院長がゆっくりと言葉を紡ぐ。
「我々は違反に反応することで存在意義を持つ。動く者を排除し、逸脱する者を正すことで制度は維持される。」
ユーフェミアは――動かない。
制度に役割を与えない。
彼女の沈黙は、彼らの存在理由を吸い取っていく黒い穴のようだった。
牧師は胸元の十字架に触れ、震える吐息を漏らした。
「悪でも善でもなく……無ですか。人は物語の中で悪役には抵抗できても、空白には崩れる。」
NPCたちの顔がどれも曇る。
彼らは反乱を恐れない。反乱には筋書きがある。ヒーローと悪役、秩序と逸脱、勝者と敗者。
だが“舞台装置の回転音だけが響く世界”――演者も台詞もない舞台に、彼らは最も弱い。
学院長は机の上の資料を閉じた。
白紙のような静寂が、そこに待っていた。
「彼女が立ち上がるまで、何も変えるな。」
その言葉は、命令であると同時に祈りだった。
祈りが届く先には、たった一人の少女が座っている。
何もせず、ただ息をしているユーフェミア――制度そのものを拒む、沈黙の中心に。




