王子の演説 ― “語れない英雄”
宮廷報道官の控室には、削除された文章の断末魔が積み上がっていた。
赤い修正線は、まるで魔獣の爪痕のように原稿を引き裂き、書き手の意志を何度も無効化している。
「寄付を称賛したら、誰の功績になる?」
「発言が“犯人探し”に転化する可能性が…」
報道官は囁くように言い、誰も答えない。
彼らの背後で、宮廷の巨大な時計が乾いた鼓動を刻んだ。
時間だけが前に進む。政治は一歩も進まない。
演説本番の会場に向かう廊下は、磨かれすぎて王子の靴音すら反射していた。
彼は歩きながら、何度も言葉を思い浮かべては、すぐに崩していく。
歯を噛みしめる度に、王族教育で叩き込まれた*「語れぬ事象は存在しないのと同義」*という格言が喉を締めつけた。
英雄譚を語ろうとすれば、英雄が不在。
悪役を罵ろうとすれば、悪役がいない。
では、この寄付は何なのだ?
誰を救い、誰に届き、誰がそれを為したのか。
すべての問いの主語が消えてしまう。
幕の裏で待つ王子に、側近が小声で告げる。
「殿下、いま壇上に立てば――
聴衆は“名指し”を要求します」
その瞬間、王子の胸に稲妻のような理解が走った。
人々は称賛を、善行を、物語として所有したいのだ。
名前のない善は、誰にも属さない不吉な空白。
その空白を埋めるため、群衆は必ず誰かを英雄に仕立て上げ、
あるいは誰かを悪役として沈める。
王子は喉の奥を鳴らし、ゆっくりと視線を落とす。
英雄とは誰かを救った者。
だが――
誰にも救いを求められなかった彼は何だ?
寄付者は声を上げず、名を示さず、ただ行った。
それは王子の教科書に載っていない“異物の正義”。
その問いは原稿用紙の余白だけでなく、
彼の政治の未来という舞台の全面を侵食しはじめていた。
幕が開く。
拍手が波のように押し寄せる。
王子の口は、乾いた砂漠のように動かず――
言葉を失った沈黙だけが、彼の名代として壇上に立った。




