役人の視点 ― “制度の停止”
王都行政局の午前は、いつもなら音のない歯車のように回る。
窓口担当の官吏たちは無表情に書類を捌き、上司は署名欄の確認を繰り返す。
寄付とは――提出者の名前から始まる儀式。
それは役所の常識であり、制度の前提であり、行政の宗教だった。
だがその朝、歯車は初めて軋んだ。
◆机上の異物
封蝋のない報告書。
提出者欄は空白。添付は孤児院の受領証のみ。
「匿名寄付、金貨四百枚相当……」
読み上げた若手官吏の声は、途中でひび割れた。
周囲の視線が集まり、彼は舌を噛む。
署名がない寄付は、報告の体裁を満たさない。
寄付は「誰が」「誰へ」「どの意図で」という三重の紐で結ばれる。
功績の照合、表彰、税制優遇、政治的評価。
行政のすべては名義を中心に回る。
しかし今回――中心が存在しない。
「感謝状は……どう発給すれば良い?」
「送付先がないんだが。」
囁きは机の上で転がり、落ちる音さえ立てなかった。
◆上司の指示
課長は額に汗を滲ませ、机に肘をついた。
紙面を睨む視線は、まるで毒物を検査する科学者のようだ。
「とりあえず……“確認中”として保留に。」
その言葉は救済ではなかった。
処理不能を覆い隠すための麻酔にすぎない。
役人たちは理解している。
保留とは、制度が理解不能に遭遇したときの遺言だ。
◆善意という燃料の消失
行政機構にとって、寄付は燃料だ。
寄付の名義が回り、恩義が循環し、
施策が動き、政治が整列する。
匿名寄付はその回路を焼却する。
評価に変換できない
担当者を選べない
報告書に収まらない
功績の配分ができない
善行が制度に還流できない限り、行政はただの屍体だ。
◆沈黙の結論
書類の束は重く、誰も手を伸ばせない。
若手はペンを握ったまま固まり、老官吏はため息を飲み込む。
この案件に触れた瞬間、責任の所在が消える。
責任は常に具体的な人間へ割り振られる。
署名がなければ、罰も功績も行き場を失い、制度は浮遊する。
課長は椅子に沈み込む。
窓の外で市民が行き交う音だけが生者の証だった。
役人たちは悟った。
責任を消費できない制度は、動かない死体に等しい。
沈黙は議事録に残らない。
だがその沈黙こそ――行政崩壊の第一報だった。




