貴族の視点 ― “称賛の欠如”
貴族の夜会は、本来なら宝石のような笑声と拍手で満ちるはずだった。
しかし今夜は——グラスの触れ合う音だけが響く墓地だった。
金糸のカーテン、銀盆に浮かぶ泡の列、薔薇の香に満たされた空間。
だがそれらはすべて、主役なき舞台装置にすぎない。
舞踏会の主催者は壇上に立ち、濡れた喉を鳴らす。
予定していた祝辞は、こうだったはずだ。
「我らは孤児院を支え——」
言えない。
言葉の先に「名」がない。
称賛の矛先が存在しない。
◆視線の渦
貴族たちはワインを回しながら探り合う。
口調は低く、囁きは毒のように広がる。
「誰がやった?」
「どの派閥だ?」
「まさか……下層からの挑戦か?」
推測は次々立つ。
だがどれも答えにならない。
誰も名乗り出ないという事実だけが、静かに増殖する。
ユーフェミア派?
ライナー派?
反王家勢力?
それとも国外資本?
推理は全て失敗し、貴族たちの胸中に理解不能という名の恐怖が発芽する。
◆称賛という通貨の崩壊
この世界における慈善は、貨幣ではなく称賛の回路だ。
誰かが与え、誰かが受け、そして“ほかの誰か”がそれを見て評価する。
その三点が揃って初めて善意は価値に変換される。
しかし今回——
誰も功績を主張しない。
誰にも感謝されない。
誰も非難されない。
善意が循環しない。
貴族たちは軽く笑おうとするが、喉がひっかかる。
胸奥がざわつく。
それは嫉妬ではない。
正体のない欠乏だ。
◆恐怖の形
広間の壁に映る影は長く伸び、揺れる。
一人の若い伯爵夫人が、震える声で言う。
「このままでは……我々は“何もしていない者”として歴史に……」
その一言が、硝子を割るように空気を凍らせた。
歴史に刻まれない者は――存在したことにならない。
政治的善意は、物語の紙面で初めて命を持つ。
そこに名前がなければ、功績は死体と同じだ。
そして今、匿名寄付はその墓標すら奪い取った。
貴族たちは顔を見合わせる。
笑うことも、怒ることもできない。
彼らはようやく理解する。
称賛の欠如は、最も残酷な罰だ。
善意を消費する社会にとって、
「誰にも見られない善」こそ最大の脅威である。
夜会は音もなく終わった。
残されたのは沈黙と、割れそうなほど薄い自尊心だけだった。




