教師の視点 ― “教訓の欠落”
教員室の午前は、いつだって紙の擦れる音で始まる。
だがこの日は、紙はまったく進まなかった。
王都学園政治倫理科主任――老教授ゲルダンは、机に突っ伏すレジュメを睨みつけている。
インクのにじんだ行の最後、そこで筆致は突然止まり、空白が雪のように積もっていた。
寄付行為は社会的責任の可視化であり、当事者が――
そこで終わっていた。
そこから先を、彼は書けなかった。
寄付は名誉であり、功績であり、評価へ転化される象徴である。
それが常識だった。
誰かの名が貼られて初めて、教育として語る余地が生まれる。
しかし匿名寄付は、名札を剥ぎ取った天災だった。
善だけが残され、誰にも帰属しない。
倫理の体系は、そこに道を持たない。
老教授は震える指で教科書をめくる。
かつて彼自身が執筆した、王都公認の倫理学概説。
そこには明瞭に書かれている。
善行は、社会的主体と結びつくことで価値を生む。
「主体」がなければ価値は定義できない。
それが学会の常識であり、彼の信仰だった。
しかし今、その信仰は静かに崩れている。
◆ 職員会議
午後。職員室の円卓。
若い教師たちが落ち着きなく席に着く。
空気が水のように重い。
最初に口を開いたのは、教壇に立ってまだ二年の准講師だった。
「匿名寄付……というのは、つまり“物語的な感動”が…どこにも…」
彼は言葉を探し、結局逃げ場なく口にする。
「伝達の方法が無いのでは?」
室内の視線が老教授へ集う。
彼は目を閉じ、眼鏡の縁を指で押さえた。
答えはなかった。
寄付が物語に変換されない。
それは、教育の語彙を奪い取る毒だった。
人は“物語”によって善を理解し、教え、褒め、比較してきた。
だが今回、それは存在しない。
老教授は呟く。
「教育とは、解釈の提示だ。」
孤児院に届いた金貨の束。誰にも向けられていない一文。
それは世界を揺らしたが、解釈を拒否した。
「だが……解釈不能な善を……我々はどう評価すべきなのか?」
椅子の軋む音すら止む。
若手は視線を落とし、年配教員はペン先を止める。
その沈黙は、授業より雄弁だった。
教師たちは初めて知った。
“語れない善”は、教育の基盤を破壊する。
語れないから、人に伝えられない。
伝えられないから、評価できない。
評価できないから、制度が死ぬ。
そしてそれを前に、老教授はついに悟る。
――教育者とは、物語が存在する世界にだけ必要な職業なのだ。
その瞬間、学園の空気は音もなく沈下し、
彼の胸中で長年の倫理体系が静かに粉砕された。




