貴族社会のパニック ― “消費できない善”
王都の冬はまだ浅く、風だけが骨身を揺らす季節だった。
にもかかわらず、貴族階級の会議室には夏の疫病のような怯えが広がっていた。
報せは一瞬で広まった。
孤児院への莫大な寄付――匿名。
家紋無し、署名無し、儀礼無し。
ただの行為としての金。
それは王都の上流階層には存在してはならなかった。
重厚な扉が閉じられると同時に、議論は叫びへと変じた。
「匿名では意味が無い!」
「誰の功績にもならぬのではないか!」
「寄付とは信用の積み上げだ、受けた恩を誰に返せば良い!?」
声は怒号ではない。
理解不能への悲鳴だ。
この世界で“善”は舞台装置だった。
慈善は物語を作り、観客を動かし、寄付者の徳を飾る――それが社会の回路。
しかし今回の寄付には観客席が最初から存在しない。
「まさか……王家の対立派閥の策略か?」
「いや、名乗らぬ以上、利用できぬ!」
「だが誰かが功績を横取りする可能性が――」
語るほどに彼らは追い詰められていく。
匿名寄付は敵ではない。
**“評価の回路に接続できない善”**なのだ。
それは貴族社会の心臓を直撃する毒だった。
寄付は評価へ変換できない。
支援は政治資本に還元できない。
感動はメディア的に演出できず、SNS的拡散も不可能。
そして――
パーティという舞台が成立しない。
彼らの善意は、観客の涙と喝采を摂取して初めて価値を持つ。
匿名寄付はその循環を根ごと断ち切る。
派閥代表の一人が椅子を揺らしながら叫ぶ。
「……善が制度へ還流しないのだ。
それは秩序の否定だ!
我々は“善意の所有者”でいられなくなる!」
会議室の空気が凍りついた。
言ってはならない真実だった。
――彼らの“善”は、
社会的利益を回収して初めて生存できる寄生植物に過ぎない。
誰かが吐息を漏らした。
その音だけが妙に響く。
匿名寄付は、彼らから消費されるべきドラマを奪った。
それは英雄譚でも慈善でもなく、
ただ冬の夜に眠る子どもたちのための毛布だった。
その無音の一歩が、
王都の政治にとって最も破壊的な音となった。




