孤児院の日常 ― 嵐の前の平穏
老院長は帳簿に小さな印をつけていた。
赤い線が三本、足りない毛布の数。
煤の匂いが染みついた暖炉は、火種を守るだけの役に立たず、薪代は空欄のままだ。
子どもたちの数は年々増えるのに、大人の手は減る一方――それでも日々は回っていく。
ここは劇場ではない。
観客の拍手も、英雄の登場も、悲鳴の合唱もない。
ただ朝が訪れ、昼が過ぎ、夜が寒い。
それだけの場所だ。
その静寂を破ったのは、門番でも侍女でもなく、ひとつの包みだった。
使い込まれた机の上に置かれている。封蝋はなく、差出人の記名もない。
院長は眉をひそめる。
寄付とは、紋章を掲げ、家名を飾り、善意を取引する行為だ。
匿名の包みは、不具合そのものだった。
震える指で封を裂く。
中からこぼれ落ちたのは硬貨ではない。
金貨の束――重力を感じるほどの質量が、机を沈ませた。
院長の呼吸が止まる。
一枚、二枚……数えるほどに視界が揺らぐ。
これは王都の慈善パーティで数十人の後援者を集めても届かない額だ。
一人の行為にしては異常、組織の寄付としては不正規。
「誰の功績でもない」金が、世界観の外側から落ちてきた。
震えはまだ続く。
封筒の底に、紙が一枚。
ただ一行。
『夜は静かに眠るための毛布に』
署名はない。紋章も押されていない。
寄付者の美徳を語る文句も、感動的な背景も、苦境への共感も書かれていない。
目的だけが、完璧に提示されている。
院長は椅子に沈み込んだ。
孤児院の職員が顔を覗かせ、紙片を見た瞬間に血の気を失う。
「だ、誰が……」
答えはどこにもない。
だが二人とも理解した。恐ろしいほどに。
この国で“寄付”とは三つの顔を持つ。
名札であり、宣伝であり、政治的行為。
それらを付けない寄付は存在しない。
存在してはならない。
だが今、彼らの手元にはそれがある。
評価不能、回収不能、広告不能の善行が。
それは舞台を迂回した善――
人々が最も恐れる形だった。
院長は口を開くが、言葉は雪崩のように喉へ沈む。
子どもたちは暖炉の前で笑っている。
彼らは知らない。
この一包みが、王都の秩序を音もなく破壊し始めていることを。




