初めての自問 — 「救済対象の消失」
王子は椅子に腰を落としたまま、目の焦点を失っていた。
陽光に照らされた執務室は、いつもより広く、白々しい。何も置いていない机の天板に、指先が触れては離れる。その動きは、まるで忘れ物を探す子供のように迷っていた。
ライナーの声は、最初こそ威厳を保とうとしていたが、途中で力を失った。
――それは裂け目から漏れる風のように、細く震えていた。
「……もし彼女が悪を演じないなら、私は誰を救えばいい?」
空気が止まり、従者は背筋を伸ばしたまま動けなくなる。
王子の問いは、誰にも届かない。
届く先すら存在しない。
彼の英雄譚は、常に「敵」を前提に構築されてきた。
悲鳴を上げる民、涙を流す被害者、無辜の犠牲。
そのすべてが舞台装置であり、彼を英雄に押し上げる“背景”だった。
従者は理解している。
王子は憎しみから戦うのではない。
彼は救済の快感を求めて剣を抜く――それが誰かを助けるためであっても、自己肯定の儀式に等しい。
しかし今回は違った。
ユーフェミアは悪を演じるどころか、悪を成立させる枠組みそのものを破壊した。
彼女は脅迫を恐怖として受け取らず、誰かの涙を踏み台にしようともせず、ただ淡々と状況を処理した。
そこには悲劇がなく、犠牲がなく、救済の余地がない。
舞台が成立しない以上、王子の剣は抜かれる機会を失った。
王子は唇を噛む。
痛みが刺激となることを期待しているのかもしれない。
だが、その小さな赤痛は英雄を奮起させるほど強くない。
「……戦う相手すらいないのか」
両目が微かに見開かれる。
そこに宿るのは憤怒ではない。
理解できないという恐怖だった。
彼は勝利を奪われたのではない。
敗北すら許されなかったのだ。
剣が交わる音もなく、血の乾いた色もなく、歓声も悲鳴もない。
ただ、空虚さだけが王子の胸に沈殿する。
これは英雄にとって最も屈辱的な敗北。
戦場が成立しなかった――それこそが、完璧な敗北である。
そして、その矛先は敵へ向かうことはない。
ユーフェミアではない。
怪物でも、犯人でもない。
王子自身へ反射する。
己の正義という回路が空転した瞬間。
世界は初めて、英雄の存在意義を不要と告げた。




