正義の回路が空転する瞬間
王子は執務机から離れた。
歩き出す。
靴底が絨毯を擦る音だけが、部屋の空気を支える。
視線は壁でも従者でもなく、床そのものへ落ちている。
まるで世界を見下ろすことを拒否するかのように。
ライナー
「善は悪の対になる。
闇に剣を掲げ、民を守る。
英雄はそこから生まれる。」
それは誰かに示す言葉ではなかった。
自分自身に宛てた演説だった。
自らの胸腔に響かせ、己の歩みに意味を付与するための呪文。
剣——掲げる対象
闇——切り裂くべき敵
民——守るべき存在
数式のように、整っている。
整っていれば、納得できる。
それこそが王子ライナーの正義の回路だった。
だが今回、回路は空回りする。
ユーフェミアが拒絶したのは悪行ではない。
悪役という立脚点そのものだ。
闇が発生しなければ、剣は掲げる場所を失う。
守るべき民は悲鳴を上げず、舞台は始まらない。
ライナーの足取りが緩む。
彼は拳を握り、しかし力は入らない。
握る対象が存在しないのだ。
ライナー(低く)
「……私の剣の前に、闇が存在しない。」
その言葉は怒りの発露ではない。
祈りに似た告白だった。
英雄性を証明するための悪が現れない世界。
それは「平和」ではなく、英雄の存在意義を吸い取る虚無だ。
従者は一歩も動かない。
沈黙の中でただ悟る。
ユーフェミアが破壊したのは王子の策略ではなく——
正義の回路に投入されるべき燃料そのもの。
その瞬間、ライナーの背は、初めてほんの少しだけ曲がって見えた。




