涙と二度寝:逃避ではなく回復
目頭がじわりと熱くなった。
涙腺という配管は、前の世界では常に締め付けられ、通水が禁じられていた。
泣く暇があれば返信しろ、という無言のルール。
感情は常に圧縮保存、気圧は臨界、破裂は自己責任。
だが今は違う。
新しい肉体は、蓋を破るように水位を上げた。
悲しみではない。喜びでもない。
ただ、疲れという名の沈殿物が底から攪拌され、濁った水が溢れ出す。
頬を伝う温度に、彼は困惑さえ抱かない。
涙は、他者に見せるための記号ではなく、単に身体が排出した余剰物。
それだけの話だと知った瞬間、人間はこんなにも静かになれるのか。
枕から立ちのぼる芳香を吸い込む。
薬草と乳香が混ざった柔らかい香り。
どこか幼い頃の洗濯物を思い出す。
——いや、思い出すべき幼少期などなかったはずだ。
それでも記憶の隙間に紛れ込む、ありもしない安堵。
彼はゆっくりと横向きになり、膝を胸へ寄せ、丸くなる。
人の形から、休息の形へ。
それは姿勢ではなく、意志。
世界から撤退するのではなく、世界に身を任せる行為だった。
眼瞼の裏、色も音もない闇が広がる。
その闇は深淵ではない。
責任の書類が沈んでいくシュレッダーでもない。
ただ、静かに落ちていく湖底——沼でも排水口でもなく、眠りの水面。
抵抗はない。
逃避でもない。
誰にも咎められない、自然な休息。
涙の余熱を残したまま、彼の意識は静かに沈んでいった。
まるで、
「もう働かなくていいよ」と誰かが囁いたかのように。
そして彼は、その声の主を確かめることもなく、二度目の眠りへ落ちていった。




