重苦しい開幕 — 報告の余韻
執務室は、冬の夜気を瓶詰めにしたような静けさだった。
厚いカーテンは光を拒絶し、王子の机の上に置かれた報告書だけが、鈍い白色を放っている。
それ以上の色は、この部屋に許されていなかった。
「陛下、報告は以上にございます。」
最後の参謀が言葉を置くように頭を下げ、そのまま音を立てないように退室する。
扉が閉まる音は微細な刃のようで、空気を切り裂き、沈黙の奥へ突き刺さる。
――一瞬で、残されたのは二人だけだった。
王子ライナーと、その側に控える従者リド。
室内は広いはずなのに、視界は狭い。
王子の周囲だけ重力が濃縮され、言葉が口元に触れる前に押し潰されていく。
ライナーは報告書を見つめていた。
読むというより、凝視というより――
紙の表面を削り取り、下層の意味を引きずり出そうとするかのように。
報告書の一行目に、従者の書いた端正な字が浮かぶ。
「対象、脅迫状を受領。」
そこまで読めば十分だった。
続く文面は、既に誰の頭にも刻みついている。
開封せず。
机の水平維持に使用。
反応なし。
挑発効果、発現せず。
報告は完璧だった。
だが完璧であるがゆえに、救いがなかった。
ライナーは椅子に座ったまま、息を吐かなかった。
呼吸を忘れたというより、今は空気すら信用する気になれなかった。
従者リドは一歩下がって立つ。
肩にかかる王家の青いマントが、床に落ちる影を二重にする。
王子に言葉を投げる権利は与えられている――
だがこの沈黙に踏み込む勇気は、どの従者も持ち合わせていない。
沈黙はただ無音ではなかった。
報告書の紙面から立ち上がる見えない蒸気が、
二人の脳髄を静かに湿らせていく。
脅迫を仕掛けた者は、反応を観測するために存在した。
脅迫を受けた者は、恐怖を発動させることで事件を成立させる。
その回路は学校の廊下では常識であり、王国の政治でも常識であり、
英雄譚の根幹ですらある。
しかしユーフェミアは、回路そのものを粉砕した。
その結果が――紙に吸い込まれた、意味のない四行。
悪も、被害も、芝居も成立しない。
この静まり返った執務室は、
今まさに**「英雄が武器を突きつける先が存在しない世界」**を再現していた。
ライナーの指が、報告書の端をわずかに震わせる。
それは怒りでも苛立ちでもない。
理解不能という毒が、血液に混ぜられる瞬間の微細な痙攣だった。




