クラスの静止 — “恐怖の手前で固まる人々”
封書がノートの下に滑り込み、机が水平を取り戻した瞬間、教室は――止まった。
誰も悲鳴を上げない。倒れない。逃げない。
だがそこに広がったのは安心ではなく、感情の手前で硬化した沈黙だった。
脅迫状は、読まれることで脅迫になる。
文面を目にし、意味を理解し、恐怖を受け取って初めて“脅威”として成立する。
それは儀式だ。開封という第一手を踏まねば、舞台は始まらない。
ユーフェミアは、その最初の儀式を拒否した。
封を切らず、ただ厚みを測って捨て置いた。
何人かの生徒が、机の方向をちらと見た。
ちら見は安全圏だ。視線の射線が自分に戻らない限り、責任は生じない。
しかしその瞬間、彼らは理解してしまった。
――脅迫を“使用物品”として扱う存在が、目の前にいる。
隣の列の女子が、唇を寄せて囁く。
生徒A
「……脅しに気づいてないの?」
返事をした生徒Bの声は、細い糸のように震えていた。
生徒B
「いえ……気づいた上で……使ってる……?」
その言葉は、耳に届いた者たちの胸を掴んだ。
脅迫状が脅迫状になるには、感情を起こす誰かが必要だ。
怒る、怯える、教師に訴える、破り捨てる――どんな形でもいい。
反応のトリガーが引かれた瞬間、事件は世界に姿を持つ。
だがユーフェミアは、その役割を拒否した。
読み取られない脅迫状は、意味に変換されない紙片だ。
そこには脅威も挑発も存在しない。机の角度を整えるための厚紙でしかない。
教室の空気は、恐怖へ向かう途中で凍りついた。
誰も「怖い」と言えない。
恐怖と呼べば、それは自分が事件の当事者になると知っているからだ。
だから、沈黙が広がる。
背筋に汗が冷たく伝うのを感じながら――誰も立ち上がらない。
ただひたすら、反応を回避する。
人々は初めて目撃したのだ。
感情の発動を受け取るべき人物が、それを拒否した瞬間を。
そして、自分たちがその空白の周囲に取り残されていることを。
教室の時計だけが、一定のリズムで進んでいた。
鐘が鳴っても、この出来事は「事件」とは呼ばれない。
誰も恐怖を表明せず、誰も告発しない。
——世界はまだ静かだ。
ただし、その静寂は、彼女の机の水平と同じく人工的である。
不自然に調整され、平坦なまま保たれている。
壊す勇気を持つ者など、ここにはいない。




