最初のセリフ:本能の告白
侍女の一人が、まだ温い朝靄をまとった指先で布団の端を整えた。その動作は、熟練のウェイトレスが皿を差し出すときよりも静かで、彼の過労な神経を一切刺激しなかった。
「お嬢様、ご気分は?」
耳朶に触れる声が、奇妙に柔らかい。
彼の脳は反射的に単語を探す。クライアント、上司、課長、コンプラ部門……。
しかし提示された語彙は、異国の硬貨のように手触りの違う——お嬢様。
理解が追いつかない。
それは叱責の肩書きではなく、責任の指示でもなく、求められる提出期限ですらない。
ただ、存在を呼びかけるための言葉らしい。
「お熱はございませんか?」
追撃のように第二の侍女が問いかける。
彼は反射的に“発熱は37.5度以上で報告義務”などと社内規程を思い出したが、続きを考えるより前に、誰も彼を責めていないという事実だけが胸へ落ちていった。
——自分の身体ではない。
感覚はある。手首の細さ、呼吸に合わせわずかに上下する胸。
それでも不快ではない。むしろ、会社用に削られていった自分の身体よりも、どこか健康的で、安全な殻に包まれている気すらした。
彼はゆっくりと視線を落とす。白い枕。真綿のようなシーツ。
思考の端に、くしゃくしゃの会議資料や叱責メールがちらついたが、すぐに溶けていく。
ここでは誰も、締切を突きつけてこない。
成果指標の棒グラフも、商談の地雷原も、唐突に怒鳴り出す取引先もいない。
怒られないなら、ここに居たい。
その考えは、言語化した瞬間に自己否定される種類の弱さであるはずだった。
しかしこの寝台に横たわる限り、それは胸の奥で静かに許容されていく。
侍女がさらに近づいた。香りは微かに薬草のようで、眠気を誘う。
彼は耐えきれず、枕に顔を押し付けた。逃避ではなく、沈降。
積み重なった緊張の層が、剥がれ落ちるように崩れていく。
「……ここでなら眠っても怒られないのか」
掠れた声だった。懺悔にも似た弱さを帯びた、初めての発声。
侍女たちは顔を見合わせる。言葉の意味そのものではなく、音に宿る安堵に驚いたのだ。
その瞬間、彼はまだ知らなかった。
この国で「お嬢様」という呼び名は、ただの敬称ではなく——
守るべき存在を示す印であることを。
そして守られる側の心が、こんなにも脆く、温かく、眠りに傾くものだということを。




