投下されたイベント — “理不尽の起点”
翌朝の教室は、いつも通りのざわめきで満たされていた。椅子の軋み、鞄を机に落とす音、差し込む朝日を避けるためのカーテンの擦れ——そのどれもが、前日までと同じ〈安全〉の印であるかのように振る舞っている。
ただ一つ、異物があった。
ユーフェミアの机の上に置かれた、差出人不明の封書。
淡いクリーム色の封筒は、言葉ではなく意図そのものを主張していた。斜めの封蝋、わざとらしい高級紙。手間をかけて作った道具は、「ここに危険があります」と叫ぶことで自己正当化を図る。
教室に入ったユーフェミアは、まず机の脚を見た。きのうの掃除当番が脚を雑に戻したのか、ほんのわずかに傾いている。椅子を引き、座り、机の上の封書に視線を落とす。
驚きはない。拒絶もない。ただ、紙の厚みを測る観察者の目。
右手の親指が、封筒の端を軽く押さえた。柔らかく沈む。厚手だ。下敷きに使えば、ノートの角が沈まずに済む——その程度の判断が、瞬間的に生まれた。
ユーフェミアは封を切らない。
封書をひらりと持ち上げ、机の端に置いたノートの下へ、迷いなく滑り込ませる。
「丁度良い厚みだわ。これで机が水平になる。」
その一言は、脅迫状に込められた〈劇的な効果〉を、瞬時に道具へと変換した。
そこに侮蔑はない。怒りも拒否もない。ただ“目的外利用”という上位概念が、脅迫の物語性を粉砕する。
周囲の空気が、沈殿した。
前列の生徒がペンを落としたことに気づかない。
後列の生徒は友人の袖を掴みかけ、途中で手を引っ込めた。
教師は入室しかけた足を止め、理由もわからぬまま視線を逸らす。
脅迫状というものは、恐怖を喚起しなければ意味を持たない。
震える手、戸惑い、抵抗、泣き声——どれか一つでも反応があれば「事件」は始まる。
それらの役割を、ユーフェミアは誰にも割り振らない。自分にも、教室にも。
脅威は脅威として扱われて初めて脅威になる。
彼女はそれを、単に机を水平にするための厚紙として扱った。
火薬は確かに投下された。
だが導火線は湿っている。煙は出ない。火花は立たない。
教室全体が、自分は爆発を目撃していないことに安堵し、しかし説明できない緊張に膝を震わせる。
それでもユーフェミアは、ノートを開き、淡々と筆記を始めた。
脅迫状の存在は、机の下に押しつぶされ、角度のズレを調整するだけの役割に落ち着いていた。
事件は、ここで発火しない。




