観客の不在 — “劇場そのものが無音”
昼休みの昇降口。
階段を囲む回廊の影に、数十人の視線が潜んでいた。
だがその視線は、見届ける者の眼ではない。
責任の矢面に立たないための退避所だった。
ユーフェミアの一言――
「虐めるなら誰かに任せたいわ」
その後に訪れた沈黙は、鼓膜を凍らせるほど澄んでいる。
噂を焚き付けた者たちは、瞬間的に悟る。
ここで怒鳴れば、自分が噂の狂信者になる。
彼女を擁護すれば、ヒロイン陣営への裏切り者になる。
どちらも、燃え上がる火を自分で抱える選択だ。
誰も手を挙げない。
誰も顔を上げない。
靴音だけが、床を叩いて遠ざかる。
生徒たちの間に、不可視のルールが生まれる。
ユーフェミアの前では、言葉は“負債”だ。
怒りを口にすれば、その怒りを管理し続けなければならない。
正義を掲げれば、その正義を運用し続けなければならない。
誰もそんな重労働は望まない。
彼女は悪役にならない。
だが、悪役を望む者たちの怠惰を照らし出してしまう。
一瞬、挑発役の女生徒が助けを求めるように視線を巡らせる。
だが返ってくるのは、壁のような沈黙だけだ。
観客席は存在しない。
舞台に立っていたのは彼女ひとり、
そして相手役は舞台そのものを拒否するユーフェミア。
噂は湿った薪。
挑発は濡れた火打石。
そして――観客席は無音の虚空。
劇場そのものが、沈黙のまま崩壊する。
王子陣営が期待した「悪役イベント」は、
発火点を見つけられないまま、
灰の匂いすら生まれずに終わった。




