挑発者の配置 — “役者の降板”
昼休み後の昇降口は、湿った石畳の冷気が漂う。
靴底の音が帰り支度の生徒たちの流れを切り裂き、
その中央に、ひとりの役者が立っていた。
下位貴族の女生徒――
前回の美術室で心を崩されて以来、
**「忠誠で価値を証明しなければ」**という焦燥が
彼女の背筋を無理矢理伸ばしている。
彼女は階段の上段に立ち、
ユーフェミアが現れる瞬間を握りしめるように待った。
台詞は覚えている。声色も練習した。
彼女は今日だけは“舞台の役者”であり、観客ではない。
やがて、階段を下る影。
ユーフェミアは制服の襟元を指先で整えながら、
春風に撫でられるような速度で近づく。
女生徒は喉を鳴らし、演目の幕を上げた。
「ヒロインを虐げるつもりなのでしょう?
あの方は貴女に何もしていないのに!」
言葉は刃となるはずだった。
怒りを誘発し、嘲笑を引き出すはずだった。
そこから始まるべき――悪役劇。
ユーフェミアは一歩、足を止めた。
瞳は柔らかく、角度を持たない。
まるで、問いそのものの重さを測るように首を傾ける。
「虐げる……?」
彼女の声は、石畳に落ちた羽毛のように静かだ。
「それは、とても重労働よ。
恨みを育て、言葉を選び、責任を負い、
永遠に面倒を見続けるのだから。
私は怠惰が好き。虐めるなら――誰かに任せたいわ。」
淡々と述べられた“仕事論”。
そこに罪の否定はない。
悪意の誇示もない。
ただ、「嫌な雑務だからやらない」という、
家事の分担に似た意志の置き方だけがある。
女生徒は瞬きも忘れた。
彼女の脳内脚本は、冷酷な悪役の嘲笑で結末を描いていた。
怒声、侮辱、あるいは高慢な沈黙――
観客の前で燃え上がる舞台を想定していた。
だが、ユーフェミアは舞台に上がらない。
長い袖の裾を軽く揺らし、
まるで「捨てるに値しない負担」を横に置くように歩き出す。
女生徒は追いすがることができなかった。
勝利でも敗北でもない。
ただ、自身の台詞が無意味になっただけだった。
彼女は息を吐く。
その音は、観客のいない劇場に響くラストベルのよう。
舞台は成立しなかった。
照明はつかず、幕も上がらない。
役者は降板し、観客は存在しない。
昇降口には、ユーフェミアの足音だけが消えていく――
それは、誰も追いかける必要のない音だった。




