噂の拡散 — “湿った薪”
昼休み、廊下の空気は湿った洗濯物のように重い。
声量を抑えた噂が床を這い、靴音の影に絡みつく。
「聞いた? あの転入生――」
「ユーフェミア様が……侮辱したって」
「無垢な娘を泣かせたらしいわ」
言葉の端は曖昧に揺れている。
怒りの核は作られたばかりで、まだ芯が冷たい。
焚きつけ役の生徒たちは、火種が燃え上がる瞬間を待つ少年のように、
ちらちらと人々の表情を盗み見る。
視線の流れに従えば、すぐに彼女が現れる。
黄金の髪に飾りはなく、制服の襟は乱れていない。
ユーフェミアは四季を知らぬ庭の像のように、静かな歩調で進む。
「姫様、聞きましたか?」
ささやきが彼女の耳朶に落ちる。
それは毒針ではなく、濡れた羽根のように頼りない。
ユーフェミアは立ち止まらない。
ただ、瞼を半分ほど落として、穏やかに微笑む。
「……ふむ。」
それだけ。
抗議の弾も、弁解の盾も掲げない。
射掛けられた糸は、指に絡まる前に地面へ滑り落ちる。
笑みは誰も刺さない。
その背中には――追う理由を見つけられない。
廊下に残されたのは、互いに顔を見合わせる群衆。
焚きつけ役は焦燥を抱く。
火を浴びせる相手が燃えない。
噂は、湿った薪だった。
くすぶる煙は上がるが、火柱は立たない。
誰かが前に出て糾弾するべきだ――と頭のどこかが囁く。
正義の味方を名乗る勇者、
あるいは炎上を望む観客。
だが、誰も立ち上がらない。
「被害者の怒り」もない。
「加害者の否認」もない。
舞台装置の肝心な二つが欠けたまま、幕だけが上がった。
生徒たちは口を閉ざし、足音だけが流れる。
そこに残ったのは、ただひとつの感覚――
何も起きないという、不気味さだった。




