教師の注意 — “注意できない悪”
ついに教師は、絵筆の動きを止めたユーフェミアの背に影を落とした。
ため息を紙の上に落とすような声音で言う。
「……課題の主旨に沿う努力は必要だ。提出は——」
ユーフェミアは振り返らない。
淡く笑うでもなく、反抗の気配もなく、ただ事実を述べる。
「提出はします。
羊たちは春の顔を持っている。」
その瞬間、教室の空気が一段沈む。
教師は言葉を続けようとして——口を閉じた。
怒りの導線を探しにいった思考が、途中で道を失う。
不遜ではない。
挑発でもない。
怠慢ですらない。
そこにあるのは、本気でそう信じている人間の声だった。
教師(心の声)
「怠慢でも反抗でもない……
ただ、本気で“羊の四方向”を春だと思っている……」
彼は呆然と立ち尽くす。
講壇で威厳を保つための怒りの足場が、砂のように崩れていた。
ダメ出しは暴力ではない。
教育的規範でもない。
ただ**“正気の前提を共有できること”**があって初めて成立する。
だがユーフェミアはその前提を持たない。
彼女の春は、睡眠と羊毛の色温度で構築されている。
そしてそれは誰も否定できないほど無害だった。
教室全体が理解した。
彼女は悪役ではない。
しかし——
“悪役性が存在しない”ことこそが、最も手に負えない。
教師は視線を逸らし、次の机へ歩き出した。
敗北を悟った兵士の歩幅で。
その背後でユーフェミアは、羊の影をもう一層濃く塗りこんでいく。
まるで春の重力を、誰よりも確信している者の手つきで。




