初対面の声 ― 侍女たち
布の擦れる音が近づき、寝台の周囲で影が静かに揺れた。
「お嬢様、ご気分はいかがでございますか?」
最初に届いた言葉を、彼の脳は弾き返した。
意味は分かる。語彙としては理解している。
だが、自分に対して向けられる言葉としては成立しない。
脳内辞書は「クライアント」「上司」「課長」「部長」といった単語を最優先に呼び出す。
“お嬢様”は、その棚には存在しなかった。
返答を探そうとして、声が出なかった。
返答を必要としない問いなど、前世ではほとんど存在しなかったからだ。
質問は指示であり、催促であり、遅延の告知であった。
確認は責任であり、失敗の前兆であった。
だがこの声には、圧迫がない。
「お熱はございませんか? お顔が少し赤く……」
別の声が重なる。
澄んだ鈴のような響き。
体調を案じる言葉が、責める調子を伴わずに届く。
「体調管理が甘い」と叱られた記憶が、ゆっくりと遠ざかっていく。
彼は目を瞬いた。
自分の体ではないという感覚は、確かにあった。
四肢の位置、指の長さ、腹部の柔らかさ――
すべてが微妙に違い、肌の内側が静かにざわつく。
けれどそれは嫌悪ではなかった。
幼い頃の布団に潜り込んだとき、他人の匂いの残った枕を嗅いでしまったような、知らないのに落ち着く不思議な違和感だった。
返答を求める視線は、絡みつくものではなく、ただ待っている。
彼は布団の縁を指先でつまみ、ふと考える。
怒られない。
遅れを責められない。
誰も、「急ぎです」と言わない。
胸の奥で何かがほどける感覚がした。
怒られないなら、ここに居たい。
それは声にならなかったが、思考の形を持って生まれた。
侍女たちはまだ彼の表情を覗き込み、体調を気遣う言葉を慎重に並べている。
その優しさの密度は、逃避ではなく、救済に近い。
彼は深く息を吸い、目を閉じた。
まぶたの裏の闇が、甘く温かく、拒絶の気配を含まない。
それだけで、彼はこの世界にもう一歩沈んでいった。




