王子の最初の誤解 ― “これは嵐前の静けさだ”
報告を聞き終えたライナーは、しばし沈黙した。
銀器が反射する朝の光が、彼の瞳に刺さる。
沈黙は動揺ではない。英雄が理論を組み立てる時間だ。
やがて、彼はゆっくりと息を吐いた。
ライナー「……牙を隠しているのだ。」
淡々とした口調。だが指先だけが震えている。
自分に言い聞かせるような声だった。
ライナー「それが悪の狡猾さというものだ。
悪役は、観衆の前で牙を剥かない。
最も効果的な瞬間まで、潜む。」
その瞬間、彼は恐怖を理解したのではない。
恐怖に意味を与えることで、安心を組み立てた。
「悪役が牙を剥かない」のではなく、
「牙を剥く準備をしている」と設定し直したのだ。
従者は、沈黙の末に首を垂れた。
従者「……殿下のお考えの通りでございましょう。」
その言葉は理解ではなく、迎合の影。
従者自身は状況を把握できていない。
しかし王子が“英雄譚の始動”という脚本を求めるなら、
従者はただその脇役として振る舞う。
その瞬間に、従者という一人の人間は薄く溶けた。
彼は王子の物語の前座NPCへと変質し始める。
ライナーは満足し、軽く顎を引いた。
理路が整えば、正義は動ける。
——そう信じている。
だが、廊下の向こうで日傘を揺らす令嬢は、
隠された牙など持たない。
持たないという事実そのものが、
この世界最大の暴風の卵であることを、
この時点の王子はまだ知らない。




