王子の英雄的焦燥 ―“牙の不在”
寝室の鏡は、朝の光をよく拾う。
張りつめた空気の中、ライナーは白手袋を指先で整える。
革の擦れる小さな音が、剣の柄を握る予感を呼び起こす。
鏡の向こうに映る自分の姿は、まだ静止している。
だが彼の眼差しは、すでに戦場に向かっていた。
――そこには確かに幻影があった。
伸ばした剣先が光を裂き、
背後で怯えるヒロインを庇う自分。
群衆は喝采し、悪役は震える。
英雄譚の幕は、剣を抜いた瞬間に開くはずだった。
ライナー(心声)
「悪を正すとは、誰かが悪を演じることだ。
…彼女はいつ牙を剥くのだ?」
その問いは怒りではない。
英雄としての職能が未稼働のまま停滞する己自身への飢えだ。
脳裏に浮かぶユーフェミアの姿は、美しく、整って、静かだ。
だがそこにあるはずの毒針も嘲笑も陰の気配もない。
――牙がない。
ただそれだけの事実が、英雄の足場を崩す。
王子は鏡から視線を逸らした。
自分の剣は抜かれる準備が整っているのに、
戦う相手は鞘の中で眠ったまま。
獣であって獣の役割を果たさない存在。
無害。
牙の無い獣。
その認識は、まだ彼に安堵を与えている。
牙さえ剥けば戦える。
物語は起動する――
そう信じている段階だから。
しかし彼はまだ知らない。
牙を剥かないことそのものが、
英雄譚にとって最も致命的な敵であることを。




