「常識と英雄観のズレ」
従者は淡々と、しかしどこか怯えを含ませて言った。
「護衛をつけぬのは危険でございます。
ユーフェミア様は……襲撃への備えがありません」
銀のカップから湯気が立ちのぼる。
朝の光に透ける白い蒸気は、さながら言葉の憂慮を可視化するかのようだ。
ライナーは視線を持ち上げた。
従者の言葉の主語は ユーフェミア。
だが王子の思考は真逆へ跳ねる。
「危険とは“襲う者”がいて初めて成立する。」
彼の声は、水面に落ちる石のように静かで硬い。
「誰も彼女を襲わないのなら……危険はどこにある?」
従者は瞬きをした。
理解不能な問いに、礼節の言葉が喉でつっかえた。
彼は現実的な危険を想定している。
刃物、誘拐、暴行、名誉の毀損――
貴族社会の常識で語られる“脅威”の型。
しかしライナーが恐れているのは違う。
襲撃ではなく、襲撃という演目の不在。
悪役が悪役として振る舞わぬまま、
ヒロインが被救済者の席に座らず、
英雄が剣を抜けず、物語が成立しない――
それは彼にとって、
怪我よりも重い 存在論的危険 である。
従者は口を閉ざした。
沈黙は謝罪ではなく、理解の断絶だった。
王子の理屈に踏み込めず、
ただ職務としての恐怖だけを抱えて立ち尽くす。
ライナーはその沈黙を見て、ほんのわずかに微笑んだ。
英雄の語彙と常識の語彙が噛み合わない瞬間の、
清冽な孤独に似た微笑だった。




