王子の思考の起動 ― “正義は観測から生まれる”
報告を受けたライナーは、怒りを覚えた。
だがそれは王族の威信を損ねられた怒りではない。
もっと別の、劇作家めいた怒りだった。
ライナー(心声)
「護衛は咬ませ犬。暴漢は前座。
それらが整って初めて、私は剣を抜く資格を得る。」
彼にとって正義は自発的に湧くものではない。
舞台が整備された瞬間に点灯する照明のようなものであり、
王子としての徳目ではなく、英雄としての役割だった。
だから悪役令嬢ユーフェミアの存在とは、
英雄性を跳ね上がらせるための踏み台に他ならない。
悪役を挫くことで観客は喝采し、
その喝采の反響によって王子は英雄に変質する。
それが物語の正統であり、
それこそが「世界が王子に期待する動線」だ。
だがその踏み台は――
地べたに寝転び、
「起きる気がない」
ユーフェミアは悪意を持って無視するのではない。
悪意という概念ごと捨て置いている。
挑発は風、陰口はノイズ、脅迫状は紙の厚み。
彼女の眼差しには“役割”という概念が存在しない。
ライナーはナイフを皿に戻し、
磨かれた銀器に映る自分の顔をじっと見つめた。
英雄の瞳がそこにあるべきはずだった。
だが映っているのは、まだ舞台に呼ばれていない少年の顔――
誰からも役を与えられぬままの役者だった。
ライナー(心声)
「私は悪役を憎んでいるのではない。
……悪役が存在しない世界を憎んでいる。」
その感情は、怒りというより飢餓に近かった。
自らの英雄性を証明できない空白。
聖剣が鞘の中で腐っていくような焦燥。
彼の“正義”は観測から生まれる。
だからこそ――
観測対象が沈黙を貫く世界は、彼にとって最悪の悪なのだ。




