“英雄は報告から目覚める”
王立学院の朝は、馬車の蹄音で始まる。
貴族の紋章を掲げた馬車が整然と並び、護衛の影が歩道に重なる。
吐息のような会話と、軽い笑い声。
それらが一定のリズムで往来する――それが王子ライナーの想定する正常な舞台であった。
だが今朝、そこに一人だけ、輪を外れた歩調があった。
ユーフェミア・アストレイド。
一切の同行者もなく、ふわりと裾を揺らし、靴音を控えめに刻んで学院へ向かう令嬢。
侍女も護衛も馬車もない。
ただの少女として歩くその姿は、「事件の発生確率」を無慈悲にゼロへ収束させる。
──従って、王子ライナーの朝は最初の報告から異常を孕む。
王城の朝食室は、整った秩序そのものだった。
白磁の皿に映る蜂蜜色のパン、銀器の反射がわずかに揺れる。
絵画のような静謐の中で、従者の声だけが波紋を作る。
「ユーフェミア様、本日も徒歩で学院へ向かわれました」
報告は事実のみを述べた。
だが語尾には、理解不能な現象を告げる者独特の戸惑いが、目に見えない霧のように纏わりついていた。
ライナーはカップを持つ手を止める。
一拍の沈黙。
彼はゆっくり息を吐いた――否、吐かされた。
ライナー(心声)
「徒 歩 ?
馬車も護衛もなく?
……暴漢は、事件は、誰が仕掛ける?」
本来の筋書きはこうだ。
悪役令嬢がヒロインへ牙を剥く。
それに義憤を覚えた王子が立ち上がり、救済する。
悪を罰する英雄劇が開幕し、拍手喝采を受ける――
だがその前提条件、つまり悪役側の発火点がまったく点火しない。
エリーが困っていても、ユーフェミアが見向きもしないなら、
正義は刀を抜く理由を失う。
騎士は舞台に立つ機会を失う。
ライナー(心声)
「悪を正すとは、誰かが悪を演じることだ。
……彼女はいつ牙を剥く?」
机上のパンが、噛みしめる前から妙に味気なかった。
英雄の食卓は、物語の不在に飢えていた。




