視線 ― 自分の髪に驚く
ふと、視界の端に柔らかな線が落ちた。
極細の金糸を束ね、朝日の薄膜で磨いたような色。
白に近いのに冷たくなく、黄色に寄るのに汚れがない。
――薄金色。
光を吸わず、鋭く反射せず、ただ空気の流れに合わせて揺らぎを返す。
高級な絹の反物を手の甲で撫でた時にだけ見える、あの曖昧な光沢だ。
彼は一瞬、天蓋の布が垂れ込んだのかと思った。
けれど、それは彼の頬を掠め、喉元をくすぐって顎の下にひらりと落ちた。
髪だった。
自分の。
鋭い驚きのはずなのに、思考は鈍かった。
「疲労で色彩がバグっている」
まずそう考える。
徹夜明けの視覚が乱れるのは珍しくない。
会社帰りに見た夜の看板が三重にぶれていた夜を、彼はまだ覚えている。
しかし、現実が追いついてくる。
髪が首筋を撫でる感覚は、錯覚ではない。
一本一本が生きているように、体温で微細にうねり、肌に触れ、静電気の気配を残す。
夢は質感を誤魔化す。
温度や重量を曖昧に処理し、触覚をぼかす。
だが、この金色は違った。
まるで「自分の身体である」と主張するように、存在の境界を刻んでくる。
指先を持ち上げ、束をつまむ。
薔薇色の爪が視界に割り込み、彼はさらに固まった。
爪は磨かれている。
自然ではあり得ない艶。
クラブのVIP席で見た女優のネイルより、清潔で精密な形。
「……俺のじゃない」
声に自分が驚く。
低く掠れたはずの喉は澄んでいて、耳障りな疲労の震えがない。
声帯が新品の楽器に交換されたかのようだ。
薄金の髪が肩に広がる。
首筋を伝う淡い痒みが、否応なく現実を突き付ける。
夢はここまで繊細に身体を侵食しない。
これは逃避ではなく、移行だ。
今さら否定しようとしても、髪はなお彼の皮膚の上で揺れ続けた。
まぶたの裏で、黒髪短髪の自分が遠ざかっていく。
顔を伏せた社員証の写真、整髪料の匂い、電車の窓に映った疲労の影。
それらは、背後の廊下に置き忘れた傘のように、もう戻ってこない。
彼は、静かに息を吐いた。
驚愕は爆発ではなく、どこか深い湖の底へ沈む石のようだった。
胸の奥でひとつだけ言葉が浮かんでは消える。
――戻らなくてもいいのかもしれない。
その思考を掴む前に、柔らかな天蓋の影が再び視界を覆った。
薄金の髪は、彼に寄り添うように肩へ落ちた。




