悪役性の欠落”という恐怖
ユーフェミアは、湯気の薄く立つ紅茶をひと口だけ含んだ。
その所作は絹を畳むように静かで、視線は遠くの空に漂う雲へ向いている。
「今日は湿度が低くて、葉がよく香るの。紅茶は天候に左右されやすいのよ」
ただの天候の話。
視界のどこにも毒の爪が見当たらない。
エリーはそれを理解するより先に、理解不能という感情に押し倒された。
彼女の脳裏に保存されている脚本には、決められたセリフ群がある。
お高くとまった嘲笑。
ヒロインを踏みにじる宣言。
王子の介入を促す侮辱。
平和はそのどれにも該当しない。
だから恐ろしい。
(どうして私に牙を向けないの。
どうして“悪役”を演じてくれないの。
私は誰から守られればいいの)
胸の内で問いが重なり、息が肺の奥でつっかえた。
沈黙を埋めようと、彼女は強引に“物語”の方向へ舵を切る。
「……皆さん、あなたを待っています。王子殿下も、学院も」
それは懇願に近い台詞だった。
自分を傷つけてほしいという願いを、誰にも知られぬ仮面で覆った言葉。
ユーフェミアは首をわずかに傾ける。
怒りでも嘲笑でもない。
まるで風に揺れた影を確認するかのような、無自覚な柔らかさ。
「待っているのは式典よ。私ではないわ。
舞台に立つのは苦手。眺める方が楽でしょ?」
それは優しさとは似て非なるものだった。
悪意でも善意でもなく、ただの合理的な怠惰。
相手を踏みにじるわけでも、救おうとするわけでもない。
ヒロインとしての“役割”を焼き切る酸のような無害さ。
エリーは息を呑んだ。
ユーフェミアが斬り捨てたのは、自分ではなく物語そのものだった。
守られるための恐怖も、救済を呼ぶ涙も、ここでは立ち上がらない。
己の存在を形作ってきた輪郭が、音もなく削られていく。
それは悪役の攻撃よりはるかに残酷な沈黙だった。




