ヒロインの挨拶 ― スクリプトの発火を期待して
距離を詰めるにつれ、エリーの歩幅は縮んでいった。靴底が芝生に沈むたび、心臓が胸の奥を叩く。対立イベントという脚本が、半透明の誘導矢として頭上に見える気がした。悪役令嬢に声をかければ、彼女は振り向き、冷たい嘲弄を浴びせる──それが物語の始まり。守るべき存在としてのヒロイン。王子の庇護を受ける者。役割を思い出せ、と心が囁く。
それでも、喉は渇き切っていた。声を出す瞬間、舌が上顎に貼りついた。
「……ごきげんよう、ユーフェミア様」
震えを押し殺したつもりだったが、語尾が僅かにかすれた。
呼びかけられた本人は、驚くほど滑らかに視線を上げた。
睫毛が風に揺れる。敵意の気配も、舞台袖の熱もなかった。
「ええ。ごきげんよう。式は人が多いから疲れるでしょう。ここは風が通る」
その声は、学園のどこにでも置けるほど完璧な社交辞令だった。
角も針も持たない。優雅に磨かれた表面だけが静かに光を反射している。
まるで、彼女はエリーの存在を**“敵役”ではなく“客人”**として扱っているようだった。
エリーの背筋が、音もなく固まった。
期待していた炎の着火は起きない。
胸の奥で燻る焦燥だけが、燃え方を忘れた火種のようにくすぶっていた。




