覚醒 ― 柔らかさの質が異常
視界は乳白色だった。
光の濃淡がまだ輪郭を持たない世界で、最初に認識したのは、頭上にたゆたう薄い布。
蜘蛛の糸をいくつも束ね、空気に溶かしたような膜が、小さく揺れている。
寝台の天蓋――その単語に思い至るより先に、柔らかな影が目の表面を撫でた。
頬を支える枕は深く沈む。
まるで中身が液体であるかのように、こちらの重さを拒まず、圧迫の反発を返してこない。
オフィスの簡易仮眠用ソファ。
硬い合皮、バネの軋み、十六分寝るたび背中が後悔する――あれらの記憶から、あまりにも離れている。
空気が柔らかい。
冷却機の乾いた風でもなければ、深夜の電車に漂う鉄の匂いでもない。
温室の中で育つ花を、遠くから眺めているような、湿りを含んだ呼吸だった。
瞼を開く行為は、本来労働だった。
前世の朝は、瞼をこじ開けることにまず意志力が必要で、眼球は砂利を噛んだように痛んでいた。
だが今は違う。
まるでまぶたが勝手に世界へ挨拶したかのように、自然に持ち上がる。
耳に届いた声が、不意に現実を形づくった。
水を含んだ木綿のような柔らかな響き。
遠くで風に揺れる布が擦れ合う音。
侍女たちの囁き、衣擦れ、スカートの裾が床を撫でる微かな摩擦。
硬質なヒールの足音はなく、革靴の乾いた打撃音もない。
リズムは、眠りを起こさないための歩みだった。
彼はそれを夢だと思った。
以前、会社の福利厚生で泊まった高級ホテルのスイート。
遮光カーテンの隙間から落ちる金色の朝。
全身を吸い込むようなベッドの弾力。
――その延長線だと。
だが、匂いが違う。
洗剤でも柔軟剤でもない。
花蜜を水で薄め、さらに日差しでろ過したような香りが、呼吸の奥まで満たしていく。
人工的な清潔さはなく、鼻孔を刺す刺激もない。
ただ、静かに甘い。
「……なんだ、これ」
声を出した瞬間、喉に引っかかるはずの乾燥がなかった。
唇は割れていない。
目の奥も痛まない。
疲労の残滓は、どこか遠くに置き去りにされている。
彼はようやく、現実が夢の質を超えていることに気づく。
夢は贅沢を模倣する。
だが今、彼の体感は模倣ではなく回復に近い。
溺れるように眠りたかった日々の果てに、たどり着いた静かな湖底――
そんな錯覚が胸の奥に灯る。
そして彼は、再び瞼を閉じた。
「……ここでなら眠っても怒られないのか」
言葉は空気に溶け、侍女たちは小さな悲鳴を上げた。
彼自身はそれをもう聞いていなかった。
溶けるような眠りが、再び彼を包んだ。




