ブランク ― 境界のない闇
落下の感覚はなかった。
衝撃も、痛みも、息の詰まりもない。
ただ、あらゆる縁がゆっくりと溶けていった。
墨汁を水に落としたときのように、世界の輪郭がひろがり、滲み、どこにも固定されなくなる。
耳鳴りが遠ざかる。
筋肉に張りついていた疲労が、鱗のように剥離していく。
背骨の重さが抜け落ち、視界から光も音も奪われていくのに、不安はない。
暗闇は深いが、恐ろしくはなかった。
それは沈む場所ではなく、支えられる場所だった。
かつて昼休みの喫煙所で、雨の音に守られたと錯覚した瞬間と似ている。
人声が届かない場所だけが、彼にとっての安息であり、世界から静かに切り離されることは救済だった。
「眠る」のとも違う。
眠りには明日の予感がつきまとう。
「失う」のとも違う。
失うには抵抗と痛みがまとわりつく。
この闇には、どちらもない。
負担が剥がれ落ち、その欠片たちが底の見えない水面に沈んでいく。
ただそれだけだ。
指先の腫れ、胃の灼けるような感覚、首筋の鈍痛――
いつからともなくまとわりついていた肉体の悲鳴が、遠い他人の回想になっていく。
自分の体であった証拠すら、輪郭を失い、沈んでいった。
思考の最後の一滴だけが、闇の底に降りていく。
それは願いではなく、祈りとも違う。
ただ、静かな真実。
——休んでいい理由が欲しかった。
その言葉が、ゆっくりと音を失い、溶解し、闇へ吸い込まれた。
彼は抗わなかった。
世界が閉じることを、久しく忘れていた安堵として受け入れた。
そして、境界のない闇は、彼を残さず包み込んだ。




