執事の観察者視点:静かなる災厄
クラウスは退室の礼を取り、静かに扉へ向かった。
だが、指がノブに触れた瞬間、ふと視線が寝台の少女へと戻る。
上等な羽毛布団に沈み込み、まるで世界に背を向けるように眠っている。
——お嬢様は、何もしないことで世界を困惑させる天才だ。
声に出さず、胸中でつぶやく。
脅しも傲慢も、勝利を誇る咆哮もない。
ただ一言、「行かない」と告げただけで、学院の一日は破砕し、予定されたイベントは音もなく崩落する。
運命装置——若い貴族令嬢たちの未来を導くはずの旗印。
それらを手に取ることなく、足元で踏み潰していく姿は、むしろ暴君よりも恐ろしい。
彼女に悪意はない。
ただ眠り、ただ休む。
その無為が、周囲にとっては暴風なのだ。
何かを為す者は予測できる。
だが、何もしない者は制御できない。
彼は若き冒険者が巨大な竜を前に立ち尽くす姿を、幾度も見てきた。
だが本当に恐怖を覚えたのは、息ひとつ吐かぬ古龍に、己の剣が届かない時だ。
エルンスト家の令嬢は——間違いなくその類である。
クラウスは小さく息を吐き、ノブを回す。
扉の向こう、廊下には控えている侍女が立っている。
彼女が心配げに視線を寄越すが、執事は一切の感情を宿さぬ表情で微笑んだ。
「湯の用意を。紅茶は先ほどの銘柄を。少しだけ温かめに」
侍女が下がり、廊下に足音が遠ざかっていく。
——世界が壊れるより先に、紅茶を温めるのが執事の仕事である。
そう確信しながら、クラウスは静かに扉を閉ざした。




