教師たちの違和感 ― “悪意の不在は不具合”
職員室の窓は朝の日差しを均一に受け、
書類の端をなぞる光が、硝子のような静けさを床へ敷き詰めていた。
その光の上に、生活指導担当の足音だけが落ちる。
「報告します」
彼は手帳を開き、読み上げるというより淡々と事実を置いた。
「喧嘩相談が一週間発生していません。
生徒会への仲裁依頼も、ゼロです」
椅子に座っていた面々が顔を上げる。
驚愕ではない。困惑の前段階――
想像した反応が手に触れない場所にある、そんな顔つきだ。
「ゼロ?」
学年主任が聞き返す。
「体育館でも? 部活動の衝突も?」
「ありません」
生活指導担当はページをめくる音すら丁寧に響かせる。
「廊下での口論も、指導対象になる挑発も。
全て、ゼロです」
その“ゼロ”が連続した瞬間、部屋の空気が僅かにざわつく。
悪いことを告げられたわけではない。
むしろ、理想の統計。
だが、その理想が無抵抗に連続すること自体が、誰の経験にもなかった。
沈黙を破ったのは魔導薬学教師だった。
白衣の袖を整えながら、眉間に深い皺を刻む。
「薬品実習で、指先を切る者すらいないんだ」
彼の声は低く、重く沈む。
「ピンセットの角度を誤る一年生も、
硝子プレートを落として割る三年生も。
……信じがたい」
彼は視線を落とす。
そこには、生徒たちが提出した完璧な実験報告――
焼き付き防止用の魔力制御すら“例外なく”成功している記録があった。
誰も言葉を継がない。
「良いことではないか」と笑い飛ばす者もいない。
奇妙な均衡が、むしろ恐怖へ寄り添う。
やがて主任が、咳払いひとつだけして呟く。
「……正常ではない正常、か」
言葉にした瞬間、部屋の温度が一段落ちた。
それは感染する概念だった。
誰も否定しない。
しかし、誰も害を提示できない。
授業進行は滑らか、成績は向上、欠席は消滅。
「問題」は存在しないのに、胸の奥で鈍い不協和が鳴り続ける。
議題は机上に浮いたまま、どこにも着地しなかった。
処理すべき書類も、点数も、指導計画も――
全てが理路整然と整えられているのに、
人間の不完全さだけが喪失していた。
教師たちは互いの顔を見合う。
視線の奥に、未定義の懸念が潜む。
それは言語に変換されたことで初めて、輪郭を持ち始める。
悪意が消えた世界の静けさは、
理想ではなく、不具合の匂いを孕んでいた。




