生徒たちの奇妙な好調 ― “原因不明の幸福”
朝一番の教室には、徹夜のはずの魔術科がぞろぞろと入ってくる。
なのに、疲労の気配は一つもない。まぶたは軽く、血色は良く、誰もがよく磨かれた道具のように滑らかに動く。
「昨日三時間しか寝てないのに、吐き気ゼロだわ」
席に鞄を置きながら、桐谷がぼそっと呟く。
それを聞いた後ろの席の安曇が、教科書を机に並べつつ首をかしげた。
「え、三時間? 俺なんか一時間半だぞ。それでこのスッキリ感。
課題も魔力計算もノーミス。むしろ調子上がってる」
数字が並ぶほど、会話に浮かぶのは愚痴ではなく自慢へ似た喜色だった。
その喜色に、過去の疲弊をはぐらかす力が混ざる。
「夜更かしで頭回ってない」「眠い」「だるい」という鉄板ネタは、誰からも引き出されない。
別の机では、いつもなら寝不足を盾に遅刻や課題忘れを正当化する連中ですら、妙に張り切っていた。
「提出物? 昨日全部終わらせた。気づいたら勝手に集中できてさ」
「俺も。途中でコーヒー淹れようと思ったけど、必要なかった」
彼らの声は軽い。けれど、軽いがゆえに“正常”を装う人工の調子があった。
手応えがない。努力した感触がない。だが結果は完璧――
その種の「出来すぎ」を、彼ら自身うまく言語化できていない。
点呼の時間、担任が出席簿をめくるたび眉を寄せる。
名前を読み上げれば、全員が素直に返事をした。
一度も詰まらず、欠席欄は白紙のまま。
「……欠席者、今日もゼロ?」
黒板の前で立ち尽くす声は、呆れに近い戸惑いを帯びる。
別の教師が保健室の報告を確認して、さらに困った表情になった。
「保健室報告も……ゼロ? ノートが真っ白だぞ、どういうことだ」
真剣味はない。むしろ笑い話になると思っていたのだ。
だが笑いは教室に落ちず、代わりに静かな共鳴だけが満ちる。
「それが普通じゃないの?」と誰もが思っている――
思っているが、その“普通”は昨日まで存在しなかった。
校舎はにぎやかだ。だが摩擦がない。
誰も躓かず、誰も呻かず、誰も寄り道しない。
眠気や不調といった微細な不良イベント――
日常の潤滑剤だったはずの引っかかりが、影ごと消えていた。
廊下を流れる会話の粒子は、やけに澄んでいる。
「今日も元気」「昨日も元気」「明日もきっと元気」
そんな言葉にならない肯定感が漂うほどに、
人々の体と心は、理由なき幸福の均温に保たれていた。
その幸福の表面を撫でる指先が、まだ誰にもない。
違和感は芽吹く前の種の状態で、
ただ静かに、静かすぎるほど静かに――
教室の空気の底に沈んでいた。




