王子の最後の賭け ― “悪を作る”
王子は玉座の間ではなく、誰もいない書記官室に身を潜めていた。
正午の陽光は窓枠に遮られ、机上の羊皮紙を白銀に照らす。
その光の中心で、王子は震える指先を抑えつけるようにして、最後の一文を書き足した。
「彼女が沈黙するなら、沈黙を罪にする。」
声に出して読んだ瞬間、自らの言葉の硬さに驚く—しかし、その冷たさは奇妙な安堵を伴っていた。
善を讃える者は英雄。
悪を裁く者もまた英雄。
ユーフェミアがそのどちらにもならないのなら、彼が第三の舞台を用意するしかない。
方法は単純だった。むしろ、あまりにも単純だった。
まず、宮廷法務官へ伝える。
匿名寄付の資金源が違法な交易に連なる痕跡がある、という仮説。
証拠は要らない。仮説は火種だ。
庶民の不安は薪になり、噂は焚き付けとなる。
次に、安全保障局への通達。
**孤児院の子供たちが“悪意ある勢力に利用される危険”**を暗に示唆する。
誰も子供の命を賭けにしようとはしない。
だからこそ、この疑念は一瞬で社会の血管を駆け巡る。
最後に、王子は封蝋を押した。
ユーフェミアに対する「説明要求状」。
弁明の義務。
問いを拒めば疑惑は確証へと堕ちる。
そこまで準備した上で、王子はふっと息を吐いた。
ユーフェミアが口を開けば——彼女は舞台に上がる。
“沈黙”という拒絶は、物語の外部にある力だった。
それを壊してしまえば良い。
問いを浴びせ続ければ、人々は彼女を役割へと押し戻す。
もし反論しなければ?
それならば世論は彼女を悪役に仕立て上げる。
沈黙は無実ではなく“隠蔽”として解釈されるだろう。
王子は恐ろしいほどの静けさで理解していた。
どちらの結果でも構わない。
重要なのはただ一つ——
「世界が再び物語を語れるようになること」。
英雄譚でも陰謀劇でも、悲劇でも構わない。
人々は語らなければ生きられない。
語れない世界は腐敗する。
語るための悪を作るのは、統治者の責務。
その論理が脳髄を焼き切るほどの熱を帯びて、王子は薄く笑った。
彼は善の守護者ではなくなっていた。
“物語の管理者”という別の怪物へと変貌しつつあった。
そして最後の命令文を書き終えた瞬間、驚くほど穏やかな気持ちだけが残った。
——彼はついに、世界を救う手段を手に入れたのだ。
たとえそれが、誰かの善を殺すことでしか達成できないとしても。




