王子の論理 ― “英雄の逆転定義”
王子は鏡台の前に立っていた。
そこには誰も見ない夜の自分——王冠を外し、衣を着崩し、
ただの「若い男」に戻った姿が映っている。
その鏡に向かい、彼は低く呟いた。
「彼女は孤児院を救った。
……だが、彼女は世界を救っていない」
言葉は一度宙に浮き、
やがて自身の胸へと沈殿していく。
彼はその重さを確かめるように、指先で眉間を押さえた。
「私は世界を救う。
そのためには、彼女を救わねばならない」
——救済の因果はそこでひっくり返っている。
孤児院という極小の救いを起点に、王子は広大な“世界”を背負う。
その差異が、彼の論理を鋭利な刃に変えていた。
彼の脳裏には、王家が編んできた英雄譚が並ぶ。
戦火を鎮めた王。
疫病を封じた女王。
大洪水のあとに民を立て直した先祖。
そこには常に——救われる者がいた。
泣き叫ぶ民、苦悩の群衆、祈りを捧げる人々。
英雄はその悲劇に呼ばれて立ち上がった。
だがユーフェミアは泣かなかった。
手を伸ばす者さえ拒まず、ただ静かに寄付を置いて去った。
悲劇を演じず、感謝も求めず、救済の物語に登壇しなかった。
——それは制度にとって空白だ。
制度は「行為者」を処理しなければ動かない。
法は違反者を、勲章は功績者を前提に動く。
形式に結びつかない善は、「記録不能の事象」として捨てられる。
王子はその空白に戦慄した。
善が制度に属さなければ、意味を持たないのだ。
制度と接続しない善は、
救済の網目から零れ落ち、反逆と同義になる。
——彼女はなぜ涙を見せなかった?
——なぜ救済を物語に変換しなかった?
——なぜ王家の加護の舞台に上がらなかった?
王子の胸奥には焦燥と怒りが混じり合う。
それはユーフェミアに対する怒りではない。
自分の役割を掠め取った世界そのものへの怒りだった。
英雄は救われを求める者の存在によって成立する。
ユーフェミアはその枠組みを拒絶したことで、
王子から英雄の役割を奪った。
王子は拳を握りしめた。
「私は彼女を救う者だ。
世界を救うために——彼女を舞台へ引きずり出す」
その宣言は祈りではなく、宣戦布告に近い響きを帯びていた。
彼はまだ知らない。
救済の旗を掲げるその瞬間、
旗の影にいる者を加害対象へ変えてしまうことを。
英雄になるという決意は、
救われを拒む者にとって——鎖でしかない。




