深夜オフィス:極限の静けさ
深夜のオフィスは、静かではなかった。
しかし、静かに感じるほどに、彼の感覚は摩耗していた。
空調の低い唸りが、耳の鼓膜を薄く叩く。
自動販売機の冷却音、コピー機の待機ランプが放つ微かなジジ……という電流。
蛍光灯は、昼間には気づかない周波数で鳴き続けている。
彼の脳はそれらすべてを認識しているはずだが、疲労が感覚を麻痺させていた。
背中が曲がっていることさえ、今はどうでもよかった。二十四時間以上前から、姿勢を直すという文化的行為を忘れている。
液晶モニタの光が、眼球の奥に直接焼きつく。
カーソルの明滅が、心拍と同期を失った心臓の鼓動のように規則的に瞬く。
指は勝手に動いている。文字を入力しているのは意思ではなく、もう一種の条件反射だ。
それはもはや仕事ではなく、アルゴリズムに近い。
机の端に転がる缶コーヒー。
半分ほど飲んで放置された糖分の塊が、口縁に結晶化し固まっている。
指先で擦ると、乾いたガラスのように砕けるが、蓋には残骸が固着したままだ。
それは彼の脳みそと同じように、疲労のため剥がれ落ちることを拒否している。
通知音が鳴った。
一つ、二つ、三つ、溜まり続けた小型爆弾のように。
「今日中に見積ください」
「これ、先にお願いします」
「データ来ました?」
返信ウィンドウを開く。
だが、思考の配線がどこかで断たれる。
指は止まり、机に落ちる。
キーボードは沈黙し、彼の存在がオフィスから外されたかのようだった。
画面の文字がひとつずつ崩れていくように見える。
瞼の裏側で、光が水面に落ちた反射のように揺らぐ。
総務がいつから帰ったか思い出せない。休憩に出た同僚の名前も忘れた。
ただひとつ、最後に目に入った短い言葉だけが、鋭く突き刺さる。
「急ぎです」
心臓が一度だけ、痛みを伴って跳ねた。
音が消えた。
スクリーンの白光が遠ざかり、視界の端から黒い霧が這い入ってくる。
世界が電源を落とされる寸前のノイズのようにざわつき――
思考が、落下した。




