孫権
「何をやっとんだ……姜維のやつは」
張嶷は早馬の報告を聞き、何度目になるであろう溜息を吐いていた。
この場には成都に在る軍を指揮する将も居り、劉禅もまた、玉座に座っている。
「傅僉将軍が、負傷。兵の被害は軽微ですが、未だ国境沿いで戦果は挙げられておりません」
「分かった分かった、もう良い。下がって、姜維に伝えよ。任地を、儂と交代するか? とな」
「はっ」
早馬で駆けてきた兵士は、乱れた息を整える間もなく、駆け足で宮廷を後にした。
鄧艾という敵将が、隴西地方で防衛線を再構築し始めたという報告が入ったのは、数日前の事だった。
隴西地方は姜維の北伐戦略上、極めて重要な地域であり、ここを完全に固められると今後に大きく響いてくる。
そこで度々、その防衛を探るように、姜維は子飼いの武将である傅僉と蒋斌の二将に少数の兵を与えて、国境を侵させていた。
元々、この隴西地方は姜維の故郷であったところだ。その地形や風土は、知り尽くしているはずだった。
それでも鄧艾は、そんな姜維の更に上を行く。
複雑な地形に関する知識と理解力、それらは才能と言う他無いであろう。
まるで天に目を持っているかのようだと、誰もが舌を巻いた。
それほどまでに、鄧艾の構築する防衛線は見事であった。
現に、若き将の中では抜きんでて勇猛なあの傅僉が、負傷するような返り討ちに遭ったというのだから。
「張嶷将軍よ、傅僉将軍は無事なのか?」
「陛下。報告によれば、そう大きな傷ではないらしいです。まぁ、数日は戦に出る事は適わんでしょうが。傅僉将軍に傷を付けたのは、鄧艾の副官となった徐質という敵将で、これも相当な猛者であると」
「また、鄧艾か。何かと奴は立ちはだかるな。司馬懿の兵法を最も色濃く受け継いだと聞くと、何やら因縁めいたものまで感じてしまう」
「姜維の見通しが甘いのです。とはいえ、奴が自ら兵を率いれば、もうそれは小競り合いではなくなってしまう。難しい立場ではありますな」
とはいえ、やはり傅僉と蒋斌の二将は、不作の続く軍部の中で最も未来の明るい若武者であった。
彼らをどう活かして、どう育てるか、姜維が今やらなければならないのはそこである。
「漢中の諸将には、今のまま、頑張ってもらうしかないというのが現状か」
「左様ですな。とはいえ、姜維と夏侯覇は常に戦意が満々、対して張翼殿や廖化殿はどちらかと言えばあまり魏を刺激しない方が良いという立場です。これじゃあ若き将兵にも、迷いが生まれましょう」
「であれば、少しの期間、一兵たりとも戦に出してはならないと命を出した方が良いであろう。少なくとも、傅僉将軍が万全な状態になるまで」
「賢明で御座います。されど陛下の勅命は、諸将ではなく国家全体に与える影響が大きい。儂か、大将軍の命としておいた方が良いかと存じます」
「分かった。後ほど、費褘の名で命を出させよう」
漢中の軍事に関する話は、以上であった。
それよりも今、蜀漢は外交上で大きな問題と直面していた。
正直な話を言えば、今はあまり軍を動かしたくなかったのだ。
張嶷の発言は、そんな劉禅の真意を汲み取ったものである。
── 呉帝、孫権の死去。
晩年は後継者争いを引き起こし、結果、重臣らから見放された、偉大な名君の寂しき最後であった。
若くして呉の基盤を引き継ぎ、曹操や劉備といった親ほど年の離れた英雄らを相手に、呉の基盤を守り抜いた主だった。
晩年、将来を期待していた後継の子が相次いで病没。結果、その他の子供達で後継者争いが引き起こされた。
事態の収拾を図ろうとした孫権は逆に火に油を注ぎ、その醜く熾烈な権力闘争に嫌気がさしたのか、争いに加担しなかった無垢な末子を皇太子としてしまったのだ。
これが、若き頃の名君らしからぬ対応であっただけに、重臣らからの信頼も失ってしまう結果となった。
そんな孫権の孤独な心が、本当の意味で分かり合えていたのは、皮肉にも、鄧芝一人だけだったのかもしれない。




