雪の花
「薄々、分かっておりました。劉備様と酒を酌み交わすという事は、そういう事なのだろうと」
「あまりに、無垢な心を持つ御方だ。誰にも真似など出来るまい」
しばらく、女の泣き声を黙って聞いていた。
それでいて、簡雍という人間について、想いを馳せる。
北伐。
その是非を問えば、きっと、一笑に付されるだろう。そして、こう言うはずだ。
「国など全て滅びてしまえ。酒があればそれで良い」と。
勿論それを本気にするわけではない。
陳祇は蜀の政治家である。命と引き換えにしても国を守る使命がある。
ただ、こう言ってくれる人間がいるだけで、心持ちは大きく変わるだろう。
いつしか女の涙は、止まっている。
「……私は行く当てが御座いません。何卒、陳祇様のお傍に置いてくださいませんか」
「そなたは、簡雍殿の奥方であろう」
「本気になさっておいでだったのですか?いくら何でも、歳が離れすぎています。簡雍様は、私にとって父母の様な御方です」
「されど、素性が分からん者を、近くに置けぬ。私はこの国の政治家なのだ」
「呉とは縁を切って御座います。お信じになられるかどうかは、陳祇様次第ではございますが」
思わず頭を抱える。
簡単な話だ、追い払えばいい。しかし、それが出来ない。
情けないと何度も己を叱咤した。
そして諦めたように溜息を吐いた。
「再び間者としてであれば、雇うという形で傍に置こう。これが最大限の譲歩だ。その手を汚せとは言わん。心得のあるものを三人、そなたに付ける。それを私の為に動かして欲しい」
「喜んでお引き受けいたします」
涙で赤く腫らした瞳が、ようやく朗らかに笑った。
「私の下に来たのも、簡雍殿の計らいか?」
「いいえ、私が好きに判断しました。あの御三方の中でなら、陳祇様にお仕えしたく思いましたので。でなければ、愛妾などとは申し出ません」
また気苦労の種が一つ増えた。
しかし、不思議と嫌な気にはならなかった。
結局は惚れた方の負けなのだ。
この時ばかりは硬い思考を捨て、簡雍の様な心でもって、この女を信じ切ってみようと思えた。
「名は、何という」
「裏の人間に名は御座いません」
「ならばこれより雪花と名乗れ」
「恥ずかしくなるほど、綺麗な名です。もしや口説いておいでなのですか?」
「酒の上での言葉だ」
雪花は、僅かに頬を紅く染めた。
蒋琬と、董允が逝った。
奇しくも、同じ日の事であった。
諸葛亮の亡きこの国を支え、導いて来た。
それは間違いなくこの二人によるところが大きい。
更に前年には、劉禅の義母であり、皇太后であった穆皇后も病没した。
立て続けにして、不幸は重なっていく。
しかし、去る者があれば、生まれる者もいた。
劉禅の側室である王貴人が、昨年、男子を産んだ。
名は「劉セン(りゅうせん)」という。劉禅の世継ぎとなる待望の男児であった。
他の側室らも数人、身ごもっており、寵愛を受けている李詔義も、懐妊したという話もある。
姜維もまた、男子を授かった。名は「姜毅」とした。
「またこの国は柱石を失ったが、こうして新しき命にも恵まれた。昔の様に落ち込んでばかりはおれぬな」
多少やつれてはいるが、劉禅はかつて諸葛亮を失った時ほどの悲嘆に暮れてはいないようであった。
費褘は、そんな劉禅の様子に、ひとまず胸を撫で下ろす。
ただ、そうは言っても、董允の死は劉禅にとって相当応えたはずだ。
諸葛亮亡き後、劉禅の人生に道標を示し続けてきたのは、間違いなく董允であった。
これを機に、一人でも道を定められるようになれば良いのだが。
今、多少辛い時期となっても、それを期待するしかなかった。
「費褘よ、蒋琬の後任はお前が継いだが、董先生の後がまだ決まってはいない。推挙したき者は居るだろうか?」
「董允殿の後、となれば、中々に難しい人選で御座います」
目下、最も頭を悩ませているのが、その董允の後任である。
董允は「侍中」という、劉禅の政務面以外の暮らしを支え、宮中を管轄する職についており、また近衛兵団の指揮も任されていた。
その仕事は多岐に渡り、政務や軍務も併せてこなすことの出来る非凡な人材が必要であった。
加えて、劉禅にとって最も近しい臣下となる為に、人格においても優れていなければならない。
正直なところで言えば、その様に文武に優秀な人材は、今の蜀に存在しないだろう。
居たとしても、侍中よりもっと高い役職に着いているはずである。
「近衛兵の指揮を、侍中の管轄から外していただけないでしょうか」
「分かった。後に馬忠将軍と話し、別で適任を指揮に当たらせよう」
「であれば一人、陛下に推挙したき人物が御座います。文官としての才智に優れ、容貌は清廉にして、人格も君子たり得る、私が最も信頼している者です」
確信があった。
奴なら、劉禅の割れかかった心に寄り添い、実務もつつがなくやり遂げると。
惜しむらくは自分の手元に置けなくなることだが、飼い殺しにするよりはよっぽど良い選択になるだろう。
「名を、陳祇、私の右腕たる男です」




