引退
漢中に帰還し、すぐさま、蒋琬に北伐の失敗を報告した。
もう既に聞き及んでいたのだろう。その瞳には覇気がなく、土気色の顔が、あまりにも悲しそうであった。
姜維を責める事は一切しなかった。
戦の勝敗は全て、天意。私に、北伐は成せぬらしい。
そう、呟いただけで、対面は終了した。
蒋琬は数日後、病の為に大将軍の任を辞して、費褘に位を譲るという上奏文を劉禅へ送った。
自らは後方基地である「フ」という地に隠遁する事を決めたのだ。
精も魂も尽き果てた。
諸葛亮亡き蜀漢を支えた稀代の名臣は、やがてこの地にて、静かに人生の幕を閉じたのだった。
王平を漢中の主将に、姜維を涼州刺史に任じ、魏への備えを万全にさせた。
それが、彼の最後の仕事となった。
更に、首都である成都でも、不幸は続いた。
劉禅を常に支え続けて来た皇后「張敬」が死去した。
そしてまだ幼い劉循も、熱病を患い、母の後を追った。
また、武官のまとめ役でもあった呉班将軍も、肺病を患い、亡くなっていた。
国の中枢が揺らぎかねない、政治体制の大きな変化に伴い、姜維も急ぎ成都へ帰還した。
数年ぶりに顔を合わせた劉禅は、あまりに痛々しい姿をしていた。
頬は削げ、目の周りが黒く、血色も悪い。まるで死人の様である。
久々に会った姜維に向けて、無理やり笑顔を作ってはいるが、とてもじゃないが見ていられなかった。
「姜将軍よ、北伐は、運が悪かった。ただ、それだけであった」
「いえ、陛下。私の力不足でした。完璧に、鄧艾に考えを読まれました。その一点で、私は負けたのです」
「もうよい。このまま蜀軍の軸として、この国を支えて欲しい」
「御意」
この日をもって正式に、費褘は蒋琬の後を継ぎ、大将軍の位に就いた。
それに伴い、国家の方針も大きく変化した。
蒋琬は、国力が戦に耐えうる程になったとき、北伐を開始する方針を取っていた。
諸葛亮の国策を引き継いだ形だ。
しかし費褘は、決定的な情勢の変化が無い場合は、決して北伐を行わない、という方針に変更させたのだ。
一国の舵取りを任せられた天才。
彼は、蜀漢の存在意義そのものである「北伐」に待ったをかける、極めて現実的な目を持っていた。
それに伴い、北伐軍の中軸を担ってきた姜維の仕事は大きく減ったと言って良い。
勿論、今まで通り蜀軍の中枢であることには変わりはないし、実権が奪われたと言うわけではない。
今までが逆に、忙しすぎたのだ。
北伐は行わない。どこか、心に埋めがたい大きな穴が開いたようである。
それは諸葛亮を失った時の、あの喪失感とどこか似ていた。
「今帰った」
「あら、おかえりなさい」
北伐を率いた将軍の家とは思えないあばら家で、一人の少女が出迎えた。
名を柳春。姜維の妻であり、迷当の姪、柳起の妹である。
久々に帰ってきた。
今までずっと漢中で過ごして来た為、この家も何年ぶりという懐かしさだった。
蒋琬の引退もあり、柳春とこうして会えたのは、漢中に帰還し二月も経っての事である。
「春よ、すまん」
「どうなされました?」
「大王を、死なせてしまった」
「兄上より聞きました」
柳春は、姜維の周りをせっせと動き、軽装の武具を解いていった。
その声色は暗くはない。どこかさっぱりとしており、温かさがあった。
「叔父上は涼州の男です。常に、戦と隣り合わせの人生でした。死は珍しい事ではありません。土に還った、それだけの事だと、叔父上は常々言っておりました。戦場の土となれるなら、戦に生きた叔父上は本望で御座いましょう」
「ならば、なぜ泣く」
「え?」
小さな顔に手を添え、指の腹で涙を拭った。
柳春の大きな瞳は赤く、必死に堪えようとしているのが分かる。
「やはり……」
「違います、悲しみの涙ではありません。叔父上が死んだのを聞いたのは、一月以上も前です。その時に、枯れてしまう程泣きました。だからもう、大丈夫なのです」
「無理をせずとも良い。私を罵っても構わぬ。此度の戦、負ける戦では無かった。落ち度は私にあるのだ」
「私が涙を流すのは、あなたが、こうして、帰って来てくれたことに安心して泣くのです。叔父上は強い人でした、それも、比類なき程に。その叔父上が死んだことを聞いてから、もしかしたらあなたも、死んでしまったのかもしれないと。そんなはずはないのに、何故かそう思ってしまい、苦しかった、悲しかったのです。この一月、不安に、何度も潰されそうになるほどに」
「春、私は、ここにいる」
「はい。おかえりなさいませ」
姜維は、その小さな体を抱き寄せた。
細かく震えている。止まれと念じ、一層強く抱きしめた。
「幾月も一人にさせた」
「成都は、平和な街です。戦の臭いも無く、皆、笑っています。寂しくなかったわけではありませんが、私は大丈夫です」
「そうか。これが、陛下の築かれた国の形だ」
「あと、よく、張彩様がお忍びでこの家に足を運んでくださりました。一緒に馬駆けなどもして、楽しかったですよ」
「張彩様が?」
思わず驚いて、柳春の体を離した。
悪戯気な微笑みを浮かべている。
「後宮は、退屈みたいで御座います。私に、馬術を習いたいと、偶に会いに来て下さるのです」
「噂で聞いてた通り、張飛将軍の気質をそのまま継いでおられる」
「武芸の腕も、非常に磨き上げられておいででした。恐らく、この国で張彩様に敵う将軍は居られないのではないでしょうか。勿論、あなた以外の話ですけど」
「それほどか」
柳春は涼州の女で、それもあの迷当の姪である。
武芸や馬術に関して言えば、その目に狂いはない。だとすると、何とも面白い話であった。
「ならば陛下の身は安泰であろう。傍に、一騎当千の将が付いている。心強い限りだ」
何十年ぶりだろう。
心を委ね、戦をいつの間にか忘れていた。穏やかな、時間だった。
この愛しい妻に、我が子が宿ったと聞くのは、およそ二月後の事であった。




