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陳泰

 かの様に見えた。



 違和感に気づいたのは、陳泰であった。

 大きく押し込まれたのではない。中央の一万が、猛進しているのだ。

 よく見れば、両翼は後退しながらも小さくまとまっていた。


 しかし、何故。

 自棄にでもなったのか。


 僅か一万の兵で、四万の魚鱗に正面から戦いを挑み、勝てるわけがない。

 中央が衝突を開始するその直前に、陳泰はようやく、姜維の意図に気づいた。

 両翼が大きく下がり、中央が突出した、まるで槍先の様な陣形。

 背筋が凍る。


「郭将軍は五千を率いて後退を!両翼を直ちに中央へ集めて下さい」

「な、どうした陳泰」

「姜維の狙いは初めから、この本陣を突き崩すことにあったのです」


 こんな馬鹿な兵法があるか。

 最後方にいた軍が、最前線に突出しているのだ。

 しかもそれは、大将である姜維自らが率いる本陣である。


 まさか全て、計算通りだったとでもいうのか。

 魏軍の両翼は完全に置き去りである。対して蜀軍は、全軍の攻撃力を、先頭の本隊に集中させている。

 魚鱗を組む本隊の四万と、猛進する蜀軍の七万。兵力でも、勢いでも、全てが圧倒されていた。

 全てを理解した郭淮は、顔を青く染めながら、僅かな手勢を率いて、逃げる様に後退した。


 四万の魚鱗を、これでもかという程に小さく固まらせる。

 絶対に抜かせてはならない。陳泰は命を捨てる覚悟をした。


 両軍が、肉薄し、衝突した。


 瞬く間に魏軍は切り裂かれ、陳泰の目前にまで蜀軍の矛先が迫っている。


「我に続け!」

 味方を鼓舞するように、自ら前に出た。


 流石に陳泰は猛将である。その鮮やかなまでに凄まじい武勇は、魏軍を大いに奮起させた。

 魏軍が踏み止まり、勢いは弱まる。

 それでも蜀軍は、前へ前へと道をこじ開けていく。陳泰がいくら奮戦しようと、この態勢は覆しようがなかった。

 四万の内の、既に三割を失っている。

 普通なら「壊滅」とも呼ぶべき損害であるが、それでも魏軍は、陳泰は退かなかった。


「将軍。退かねば、全滅で御座います。一旦、将軍だけでも撤退を」

「決して退いてはならん。一歩でも下がれば、祖国を失うと思え」


 雄叫びを上げ、矛を薙ぐ。

 五、六人の蜀兵がまとめて切り倒される。

 矛も、その持ち手の半ばから砕けて折れた。

 剣を抜く。

 更に前へ駆けた。

 陳泰一人が、数十の蜀兵に囲まれ戦う苛烈さであった。

 先ほどまで付いて来ていた副官は、いつの間にか消えていた。


 不意に、圧力が消えた気がした。

 蜀軍の突進が明らかに弱まったのだ。


 敵の右翼、廖化の率いる陣が大きく乱れていた。

 ようやく兵が陳泰に追いつく。


「何故、蜀軍は退いていく。あと少しで魏軍を瓦解させられただろう」

「鄧艾将軍です。将軍は、後方に置いていた千の騎馬隊を廖化軍に突入させ、それを楔に蜀軍全体の進撃を食い止めたのです」

「ならば、今こそ好機ではないか。追撃を仕掛ければ、敵の半数を潰せる」

「いえ、郭淮将軍より撤退の厳命が出ております。急ぎお戻りください」


 滾る血をそのままに、陳泰は配下に何故だと怒鳴りつける。このまま殺してしまいかねない程の剣幕であった。

 兵は馬より降りて、怯えながら伝言を続ける。


「り、涼州の羌族が一気に南下を開始しました。その数はおよそ五万から七万。明後日の正午には、我が軍は背後を突かれる危険が御座います。反乱軍の盟主は、羌族の王の一人、迷当です」


 一つ息を吐き、体の熱を冷ました。

 足元で怯える配下の肩に手をやり、すまなかったと陳泰は呟く。


「急ぎ戻ろう」


 傷ついた馬から降り、配下の連れて来た替えの馬に跨る。

 両翼の退陣が済んだ後、陳泰は最後尾にて最後まで蜀軍を睨み、全軍を撤退させた。


 日は既に、朱に染まっている。

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