『存在の破片、国家の影』
その土地は、地図に刻まれている。しかしそこに描かれた国家としての「パレスチナ」は、ほとんど幻のようである。今日、いくつもの国がパレスチナを国家として承認しようと矢を放つが、その矢は瓦礫の上を滑り落ちるばかりだ。
2023年10月に始まった戦火は、年をまたいでなお続き、空爆と地上戦がガザを焼き尽くしてきた。休戦協定は反故にされ、建物は崩れ、街は断片化され、インフラは寸断される。爆撃は病院すらも直撃し、負傷者や避難民であふれる施設は薬も酸素も尽き、子どもが廊下に寝かされるまま処置を受ける。
そして恐るべきは「飢餓の戦略」である。食料や医療支援は封じられ、人々は水やパンすら手に入れられない。数十万が飢餓に直面し、国際機関が「飢饉」と警告する事態にまで至った。瓦礫の街で、空爆を逃れた者が飢えに倒れる。この不条理は、もはや偶然ではなく、意図そのものだ。
だが、国家承認の流れは止まらない。欧州をはじめ多くの国々がパレスチナを国家として認めると宣言した。しかしイスラエルの首相はそれを真っ向から否定し、「パレスチナ国家は成立しない」と言い切る。承認とは、地図に線を引く行為だが、その線は爆撃と封鎖の前に何の効力も持たない。
歴史を振り返れば、パレスチナは幾度も侵蝕を受けてきた。帝国の線引き、国際社会の約束、難民の累積。そこに積み重ねられてきた「不在の地図」は、かつては記号的なものだった。しかし今、不在は暴力そのものに変わった。空爆、飢餓、追放――それらは「居場所を奪うための言葉なき宣告」である。
それでも、人は存在を示す。オリーブの木を植え、瓦礫の隙間に市場を開き、壁に名前を刻み続ける。記憶は奪われない。むしろ奪われるほどに強く刻まれる。存在とは、ただ生き残ることではなく、記憶され、抵抗し、声を失わないことだ。
国家承認は遅すぎる歩みであり、象徴の域を出ないかもしれない。しかし象徴すら奪われれば、そこに生きた人々は完全に沈黙させられてしまう。だからこそ、象徴は必要だ。そして象徴がいつか実体に変わる可能性を開くかもしれない。
今、世界は矛盾のただ中にある。国家を認めよという声と、空爆を止めない現実。地図を塗り替える外交と、飢えに倒れる人々の現実。線引きと暴力、象徴と痛苦。その矛盾の中で私たちはどこに立てばよいのか。
未来を予言することはできない。ただ確かに言えるのは、この土地の名が呼ばれる限り、滅びることはないということだ。地図の線は紙切れにすぎないが、声は瓦礫を裂いて響く。存在し続けること自体が、最も深い抵抗である。
そして、もし願いが許されるなら、私はこう言いたい。文字よりも痛みを、線よりも命を見よ、と。地図の色分けではなく、ひとつの国家としての「生」が、そこに根づくことを。




