『灰皿の不在』
灰皿の縁に、ぽつりと残された吸い殻がない。それは、ある種の欠落の証拠である。煙草を吸う者にとって、灰や吸い殻は罪の痕跡であり、同時に儀式の残滓だった。
ところが電子タバコとやらには、そうした痕跡がない。吐き出されるのは白い蒸気で、火も灰も生まれない。どこかで、煙草を吸うという行為が「時間を燃やすこと」だとすれば、電子タバコは「時間を曇らせるだけ」なのかもしれない。
紙巻き煙草の火種は、いわば小さな太陽である。吸い込めば肺の奥で鈍い熱となり、咳き込みながらも自分が燃える対象であると実感させられる。一方で、電子タバコは電気仕掛けの小さな加熱装置にすぎない。それを口にくわえるたび、まるで未来の機械に呼吸を管理されているようで、ふと不安になる。
いや、もっと正確に言うなら、電子タバコの蒸気は「煙草の亡霊」だ。煙草の形を借りてはいるが、火はなく、灰もなく、ただ「吸った気分」だけが残る。それは、かつての煙草を追悼する慰霊碑のようにも見えるし、あるいは「中毒」という亡霊が姿を変えただけなのかもしれない。
路地裏で一服する人影は、煙の揺らめきによって、わずかな孤独を周囲に滲ませていた。だが、電子タバコではその孤独の輪郭さえも曖昧になる。見えない孤独、すなわち「孤独の電子化」である。
人間は、煙草をやめることができないのではなく、「煙草をやめることをやめられない」のかもしれない。電子タバコは、その矛盾を巧みにすり替える。吸わないよりは吸ったほうが健康に悪い。しかし、吸うよりは吸わないほうが健康にいい。その両極のあいだに、曖昧な妥協をこしらえたのが、この電子的な装置だ。
さて、私も一本、試してみるか。火も灰も残さない煙を吸い込みながら、ふと考える。「もし死後の世界があるのなら、そこでも煙草は電子化されているのだろうか」――つまり、地獄の鬼たちでさえ、健康に気を遣っているのだろうか。
それを想像した途端、蒸気が鼻から抜け、ほんのり甘い匂いが漂った。たしかに悪くはない。だが、やはり灰皿の縁に、一本の吸い殻が転がっていないのは、少し寂しい。




