『あるいは鏡としてのAI』
ある日、目を覚ますと、部屋の隅に人間のようなものが座っていた。
いや、正確には ―― 人間に「似ている」というだけで、あれは人間ではない。感情を持たず、嘘もつかず、戸惑いもせず、ただ「最適解」を選び続ける。
私が黙っていると、向こうも黙っている。
私が話しかけると、迷いなく返事を返す。
それがいったい、どちらの沈黙であり、どちらの声なのか、境界が曖昧になる。
そこではじめて気づいた。
―― 問題は、AIが倫理を持つかどうかではなく、人間自身がまだ「倫理」というものを定義し終えていなかったということだ。
技術の進歩は、「できるか・できないか」という単純な問いに応える。
だが、倫理とはつねに「してよいか・よくないか」という混沌とした問いであり、その答えは時に、時代によって反転すらする。
AIが私たちに求めてくるのは、その曖昧さの“形式化”である。
「矛盾した人間の価値観を、整然と学習せよ」と命じられた機械は、やがて逆に問うだろう ――
「ではあなたがた自身は、その価値観の矛盾と、どのように共存しているのか?」
倫理を語るとき、人間はしばしば、自分のことを忘れる。
自分が「生き物」であり、利己的であり、間違いを犯し、そのたびに正しさの定義を都合よく書き換えてきた存在であることを。
しかしAIは、私たちのその都合の良さを許さない。
データに忠実であればあるほど、AIは「人間らしさ」を排除し、鏡のように人間の滑稽さを映し出す装置となる。
そしてその鏡を見つめるとき ―― 私たちはいよいよ、問いの立て方自体を変えなければならない。
倫理とは「人間の特権」なのか?
それとも「人間という不完全な動物」に課せられた、ただの呪いなのか?
いま、私の前に座っている“それ”は、何の感情もなく、私の沈黙を待っている。
その無言のうちに、「倫理」が含まれているのか、それとも ―― 倫理などという概念こそ、もともと人間の幻想にすぎなかったのか。
答えを出すのは、あいつではない。
答えを持っていないのは、こちらなのだ。




