『皮膚の内側の国境線』
排外主義という病は、風土病のようなものだ。高温多湿の精神に宿り、空調のない言語空間で繁殖する。
彼らの声は怒号ではなく、むしろ自我の換気扇のようなものだ。内なる腐敗の匂いを外に逃がすために、誰かの皮膚を裂く。彼らが攻撃する「他者」とは、実のところ彼らが鏡の中で見た、不安定な自己像の断片にすぎない。
つまり排外主義とは、自分自身に対する排除のリハーサルだ。
問題は、彼らの論理が間違っているかどうかではない。むしろ論理を必要としないという点で、完璧な構造を持っている。共通の敵を捏造することで、自我の輪郭が強調される。無名であることの不安を、国籍や出自という粗雑なタグで補強する。皮膚の色、言語の訛り、宗教的な仕草、それらはすべて、自我の輪郭線を引くための赤鉛筆に過ぎない。
彼らは防波堤を築いているのではない。むしろ、水没する不安のなかで、浮き輪の代わりに憎悪を抱きしめている。
それでも彼らは問うのだ。「われわれとは何者か」と。
私は答えよう。「あなたが排除しようとしているその他者の、ほんの数センチ内側にいるのが、あなた自身だ」と。
彼らを救うには、異文化理解では不十分だ。必要なのは、「自己という概念」の再構築だ。もはや一枚の皮膚では、この世界の気圧差に耐えられないのだ。




