『時効という名前の風化装置』
かつて、人間には「忘れる権利」というものがあった。
過去の過ちも、冤罪も、衝動的な言葉も、時間が削ってゆく岩のように、ゆっくりと摩耗し、痕跡を失っていった。それはある意味で、生きることそのものだった。人間の記憶装置が不完全であることが、社会にとっても救済だったのだ。
だが、インターネットが登場して以来、その装置は解体された。
検索窓は、時間という砂時計をひっくり返さない。むしろ、すべてを固定し、化石化し、デジタルの墓標として刻印する。かつては「誰も覚えていない」という事実が、ある種の無罪放免を意味したが、いまでは「誰かが覚えている」という可能性そのものが、永久の罪状である。
時効とは、本来は「法が忘れる」ことであり、社会が一種の健忘症を装うための制度だった。だが現代では、人間が忘れても、機械が覚えている。
問題は、その記憶が“正確である”という前提を、誰も疑わないことだ。
たとえば十年前に書かれたある投稿が、現在の文脈に照らし合わせて、まるで罪であるかのように糾弾される。文章は文脈によって意味を変える。しかし、記録は文脈を保存しない。スクリーンショットは発話者の意図ではなく、閲覧者の怒りによって再編集される。
時効が意味を失った社会では、人間は現在にしか住めなくなる。
過去は「証拠」として監視され、未来は「予防」の名の下に規制される。そこには自由も罪もない。ただ、データ化された生存だけがある。もはや人間が時間を持たず、機械だけが過去を記憶しているなら、それは歴史というより「ログ」だ。われわれは、過去ではなく、ログの中に住んでいる。
つまり、忘却はもはや生理現象ではなく、特権である。
もしあなたが、消されることを望むなら、まず生きることを諦めなければならない。なぜなら、いまの社会において「忘れられる」ということは、すなわち「存在しなかったこと」と同義だからだ。




