『死にたさの構造』
駅のホームで人が飛び込んだというニュースが、昼のワイドショーで繰り返されていた。画面に映るのは、線路の先に向かって虚空を見つめる乗客の背中と、遅延を知らせるテロップ。加害者も被害者も一瞬で入れ替わるあの光景が、今やひとつの都市儀礼として定着しているようだ。
人が死ぬということが、以前よりもずっと軽くなってきた。あるいは、人が生きるということの方が、重すぎるのかもしれない。「死にたい」と口に出す若者は、昔からいた。しかし近年では、「なんとなく死にたい」という語法が定着しつつある。自殺念慮に明確な理由がない、という現象である。
理由がないということは、合理的な説明を拒否するということだ。そして説明できない苦しみは、他人によって共有されることも、医療によって処理されることもなく、静かに日常の中に沈殿していく。
興味深いのは、そうした「死にたさ」において、死そのものが目的ではないという点である。死にたいわけではなく、ただ「今ではないどこかに行きたい」、それが死しか選択肢として存在しないだけである、という構造。こうなると、自殺とは「逃避」ではなく、「転送」なのかもしれない。
メールの送信ボタンを押すように、確認なしに、自分を別のサーバへと送ってしまう。だが、そこに受信先はない。だから転送ではなく、削除になる。間違って削除してしまったファイルに、「ゴミ箱を空にするか?」とOSが問う。確認が出るだけ、OSの方がまだ優しい。
死が現代において持つ最大の特徴は、それが「選べる」ということだ。選択肢であることは、生きることと等価の地平に死を置く。これはかつての社会では想定されていなかったはずだ。かつて死は、病であり、運命であり、神意だった。いまやそれは、リンクのひとつでしかない。
「今を生きろ」と言うのは簡単だが、「今」が崩れている人にとって、それはガラクタの山の上に立てという命令に等しい。生の価値を説くことに熱中する人々は、死の価値が過小評価されているということに、案外無自覚である。彼らにとっての死は、敗北であり、間違いであり、回避すべきエラーだ。だが、時としてそれは、最も論理的な選択肢として現れる。
ただし、それでも私は「死にたい」という言葉には一つの注意点があると思っている。それは、「私は誰かでありたかった」というもうひとつの欲望が、必ず裏にあるということだ。人は、自分を消したいと思うとき、自分というキャラクターの脚本に納得できていない。演目の途中で舞台から降りたくなる俳優のようなものだ。
では、その舞台の脚本家とは誰か。
社会か、運命か、家庭か。
あるいは、最も見えにくい脚本家――自分自身かもしれない。
舞台が続くかぎり、照明は当たる。
降りることもできる。
ただ、誰のための舞台だったのかを考えるのは、その後では、遅い。




