『沈む哲学者』
哲学者とは、問いに触れすぎて焼けただれた手を隠している者である。
世界を理解するとは、本来、言葉を世界にすり合わせていく作業であったはずだ。しかし哲学者は、しばしばその順序を逆にする。言葉の方に世界を押し込もうとする。だが、世界はたいてい、指の隙間から流れ出てしまう。
彼らは思考することを生業としている。
だが、思考とはそもそも、道具にしてしまった時点で思考であることをやめる。
つまり、哲学者とは、思考の亡骸を抱えて歩く人間である。
彼らは問いを立てる。
問いの角度や深さ、構造について精密な言及を重ねる。だが、問いがあまりに精緻になればなるほど、その問いは外界に届かなくなる。ちょうど、精密すぎて部品の合うネジが存在しなくなった機械のように。
言葉は外へ向かって発せられるものだと思われている。だが哲学者の言葉は、たいてい、すでに崩れかけた内側の構造を補強するための支柱のようなものである。他者に聞かせるためではなく、自分が沈まぬように積まれた石の列。その意味で、哲学者は極めて孤独な土木作業員に似ている。
哲学者が社会にとって意味を持つのは、彼らが「答えを持っているから」ではない。むしろ、どんなに問いを掘っても、水脈に届かないことがあるという事実を、きちんと引き受けているからだ。
現代の多くの営みは、手早く正しさを見つけ出すことに価値を置いている。だが、哲学者はそれに抗う。彼らの姿勢は、解決ではなく沈黙の輪郭に触れることに向けられている。
それは、思考という行為が、最終的には自己消失に至ることへの予感である。問いを問いつづけた結果、自我もまた問いに吸い込まれていく ―― その静かな恐怖を、彼らは終生、顔に出さずに受け入れている。
哲学者とは、問いの奥にある地層に、耳を当てる者である。そしてその地層から、音のない揺れを聞き取り、文字にも声にもならぬまま、日々の帳を閉じる。
彼らの言葉は、理解されることを目的としていない。
むしろ、「理解という欲望の不可能性」を、理解のかたちで差し出すことが、哲学の本質なのかもしれない。




