『書くという病について』
最近では、AIが物語を書くようになったという。初めてその話を聞いたとき、私は少しだけ笑った。ついに人間は、夢を見ることさえ外注するようになったのかと。
もっとも、それも悪くない。夢というものはそもそも、見る者よりも、記述する者のほうが苦しいのだから。
「なぜ文章を書くのか」と問われることがある。
この問いはたいてい、日差しの弱い喫茶店や、湿気を含んだ会議室の片隅で発せられる。質問者の表情はどこか無邪気で、だが答えを知るにはあまりにも健康そうだ。そういう人には、「書くことが好きだからですよ」と笑っておけばいい。私の病気が感染しないように。
だが本当を言えば、「書かずにはいられないから」だ。これは少し危険な表現かもしれない。まるで情熱的な芸術家を気取っているようにも聞こえる。だが、私にとってそれは病状の説明でしかない。
街を歩いていると、たまに、顔のない人間とすれ違うことがある。正確には、顔があるのに、輪郭だけで構成されているように見える人たちだ。目鼻口は揃っているのに、そこに「誰か」が宿っていない。そういう時、私は紙の上で彼らの顔をつくってやらねばならないと思う。彼らは、世界の隙間にこぼれ落ちてしまった人々だ。ニュースにはならず、家族の記憶からも消え、Googleマップの更新にも反映されない。書くことは、そうした「欠けた現実」の再構成である。私は彼らを文章にすることでしか、彼らの存在を確かめることができない。
人間は、自分自身を証明するために他者を必要とする。だがその他者が幻想だとしたら? 書くことは、自分の孤独を他人の孤独で包み隠す行為なのだ。
便利な時代になった。言葉は瞬時に翻訳され、感情は絵文字に変換され、苦悩はAIが要約してくれる。だが、「なぜ私は存在してしまったのか」という問いだけは、未だに誰も代わりに考えてはくれない。
私は文章を書くことで、その問いの輪郭をなぞろうとしている。答えがほしいわけではない。ただ、問いが現実に存在した痕跡が欲しいのだ。
きっと私が死んでも、この問いは残り続ける。いや、むしろ死んでからのほうが、この問いはより鮮明に響くだろう。誰かがそれを読んで、「ああ、自分も同じだ」と思ってくれれば、それでいい。たとえその誰かが、もう人間ではなかったとしても。
書くことは、未来に向けた錯覚の投棄だ。
そして私は、その投棄をやめられない病にかかってしまった。




