『選ぶという病』
かつて、人間が選ぶべきものは限られていた。
それは「生きるか死ぬか」であり、「行くか留まるか」であり、「愛するか拒むか」といった、ごく単純なものだった。選択は重かったが、シンプルだった。
しかし今や、選択肢は肥大化し、あらゆる物事の表面を埋め尽くしている。朝食のパンを選ぶにも、コンビニの棚には十種類の食パン。ネット通販では百種類のレビュー付き。コーヒーを飲むだけでも、豆の産地と焙煎度と抽出方法がリスト化され、選びきる前に、冷めてしまう。
選択肢が増えるたびに、自由が増えたと錯覚する。実際には、選択肢そのものが檻になっているとも気づかずに。
無限の選択肢は、思考停止を強いる。
「どれでもいい」とつぶやく瞬間、人間は選ぶ権利を放棄し、最も安価で、最も手近で、最もアルゴリズムが推奨するものを受け取る。選ぶのは、自分ではない。既に、選ばされている。
そもそも「選択肢」とは、可能性の顔をした罠である。あなたの目の前に置かれた候補の裏側には、「本当に欲しかったもの」は最初から用意されていない。
選ぶという行為は、いまや消費の儀式であり、存在確認の代用品でしかない。選んだ結果がどうであれ、「自分が存在している」実感さえ得られれば、あとは何でもいいのだ。
選択肢が多いことは、もはや自由ではなく、むしろ人類にとって新しいタイプの不自由かもしれない。選び続けることでしか、自分がそこにいることを信じられない――そんな病が、静かに蔓延している。
選ぶことで自由になる時代は、もう過ぎた。
選ばずにいられることが、もっとも贅沢な自由なのかもしれない。




