『主語のない殺意』
たとえば、無差別殺傷とは、巨大なインク壺を蹴倒したようなものだ。墨は飛び散るが、誰が汚れるかは紙の上の運次第に見える。だが、そのインク壺の位置を選んだのは、間違いなく彼自身である。
無差別、という言葉ほど偏在にして偏向したものはない。どこにも向いていないようでいて、決して自分より強いものには向かっていかないのだから。
人間は、本来、名前を呼ぶ動物だ。だからこそ、「誰でも良かった」という言葉には、既に人間性の放棄がある。だが奇妙なことに、この放棄には「戦略」がある。捨てたはずの人間性を、まるで猟犬のように使い、最も傷つきやすい「顔」に牙を立てる。
真に誰でもよかったなら、鏡を割れば済む話だ。けれど彼らは、鏡の裏側にまで入り込んで、自分以外の反射を壊したがる。
暴力とは、現実の編集権を握りたいという欲望の、最も原始的な発露だ。だが、編集という作業には、文法と構造がある。そうした手続きを一切経ず、ただ現実を塗り潰したいという欲望だけが肥大したとき、それは「誰でもよかった」などという便利な灰色のラベルを自らに貼り、紙を燃やす側に回る。
問題は、「男か女か」ではない。「編集者か、焼却者か」なのだ。
そして、この国では、人間が編集者として育つ余地が、どんどん狭められている。試験問題には答えがあっても、問いそのものを編み出す練習はさせてもらえない。そうして無数の無名編集者たちは、ペンを剣に持ち替え、書く代わりに切り刻み始める。
誰でも良かった、と呟く者の手には、文章の代わりに刃物がある。
その男の脳内には、もはや主語も述語もない。ただ、句読点だけが、流血のように打たれている。




